悪魔の誘惑
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/06 18:55 UTC 版)
さて、イエスは聖霊に満ちてヨルダン川から帰り、荒野を四十日のあいだ御霊にひきまわされて、悪魔の試みにあわれた。そのあいだ何も食べず、その日数がつきると、空腹になられた — ルカによる福音書4章1節と2節(口語訳) 悪魔の試みをイエスが受けた場所は明記されていないが、誘惑の山と呼ばれるヨルダン川西岸地区のエリコの11km西郊外にある山(海抜366m)とする伝承がある。 悪魔から試みられるためというのは、新共同訳では誘惑、日本聖書協会協同訳、新改訳第3版、新改訳2017、岩波訳はいずれも試みを受けるためと訳している。試みられるという言葉のギリシャ語はἀνήχθη(anēchthē)であり、7節のἐκπειράσεις(ekpeiraseis)は同じ動詞で試みるということを意味する。また、悪魔はδιαβόλου(diabolou)という単語であり、中傷する者という意味がある。サタンはヘブライ語でשָׂטָןであり、告発する者という意味がある。 イエスは御霊によって荒野に導かれたのであり、あくまでこれらの試みは神の意志によってなされたことである。カルヴァンはイエスが全人類の代表としてサタンから試みを受けたのであり、ヘブライ人への手紙4章15節にあるようにイエスが罪のない者でありながら試練を受けたということであるとしている。 イスラエルの民も40年間の出エジプトにおいてその信仰が試みられたと言える。そこでイスラエルは終始神に忠実に生きるということができず、不信仰な悪い心を抱いて生ける神に反抗した。ヘブライ人への手紙の著者はこのイスラエルの民の反抗を警告として受けとり、旧約聖書の歴史を心に留めて歩むことが必要なのである。 また、イスラエルの民は神の意志を完全に実現することはできなかったが、決して現代の教会もそれをなすことはできていない。ヘブライ人への手紙4章1節にあるようにそれでも神の安息に入る約束は存続し続けるのである。 イエスは試みを受け、そのすべてに打ち勝った。イエスは試みを受けた者として人間たちの弱さに同情されているのであり、人間たちは恵みの御座に近づくことが許されているのである。この大祭司は、わたしたちの弱さを思いやることのできないようなかたではない。罪は犯されなかったが、すべてのことについて、わたしたちと同じように試練に会われたのである。 — ヘブル人への手紙4:15(口語訳)
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