宇宿の成立と中世
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/29 05:27 UTC 版)
「宇宿 (鹿児島市)」の記事における「宇宿の成立と中世」の解説
宇宿という地名は鎌倉時代より見え、薩摩国谿山郡のうちであった。「鹿児島県地誌」には「ウシク」と読みが振られている。文永9年(1272年)の谷山郡内神田並寺田注文には「うすく」という記述が見え、谷山地頭の山田忠真の弟の忠秀が「宇宿三郎」を号していた。薩藩旧記雑録に収録されている建治2年(1276年)の山田文書の「忠真譲状」に「たにやまのこほりのうちうすくのこう」とあり、山田忠真から直久に譲与されている。直久は宇宿村地頭職となった。 現在の宇宿六丁目にある妙見神社(天之御中主神社)は応永年間に熊野神社から勧請し建立されたとされ、天之御中主神を主神として祀っている。江戸時代に薩摩藩によって編纂された地誌である三国名勝図会には宇宿村の妙見神社(妙見廟)について以下のように記している。 .mw-parser-output .templatequote{overflow:hidden;margin:1em 0;padding:0 40px}.mw-parser-output .templatequote .templatequotecite{line-height:1.5em;text-align:left;padding-left:1.6em;margin-top:0}妙見廟 宇宿村にあり、例祭一歳六度、其中十一月廿六日を正祭とす、梶原氏世々代宮司たり、其家傳に云、先祖某、紀州那智山より護下り、恕翁公の命によりて、今の地に鎮座す、応永年中、福昌寺より祭田寄附あり、今に其祭田を以て、祭供を奉るとなり、當廟は霊応特に明らかなりとて、都鄙の人常に信詣す、 —三国名勝図会巻之十九 谿山郡 応永6年(1399年)には守護の島津元久は谿山郡宇宿村のうち水田八町を島津氏の菩提寺である福昌寺に寄進している。天文8年(1539年)には島津貴久が再び福昌寺に対して寄進を行っている。
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