中世の野尻
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/10 10:24 UTC 版)
「野尻町 (鹿児島市)」の記事における「中世の野尻」の解説
野尻という地名は室町時代より見え、大隅国向島のうちであった。野尻と言う地名は永享11年(1439年)の島津持久袖判証状に見えるのが初見であると考えられており、島津氏が福昌寺に野尻の地を寄進したとされている。文明7年の文明噴火では野尻村において噴火が発生し、薩藩旧記雑録の池田氏年代記には「文明七年八月十五日、向島之内野尻村燃出ル」と記載されている。
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