大口併合
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/25 14:33 UTC 版)
2月9日、元服し、初名を頼房(よりふさ)と名乗り、通称を四郎太郎とした。 同年6月27日、娑婆神峠で阿蘇氏と宇土氏(名和氏)と相良氏の老臣が会合を持った。同じ月の29日、天草の栖本氏の上津浦を攻めたので、頼房は佐敷より兵を出してこれを防がせ、さらに後田浦の兵を後詰とした。 先代の晴広の頃より薩摩国大口を併合するという野望を相良氏は持っていたが、同地には西原某という勇士がいてこれを阻んでいた。弘治2年(1556年)に相良義滋の次女が菱刈重任に嫁ぎ、この結婚で頼房と重任が相婿となったことから、この機に両者は謀り、大口城主の西原に重任の妹を嫁がせて菱刈氏家臣の栗田対馬を付け、大口城奪取の機会を伺わせた。ある時、西原が病床についたのを見計らい重任は80余名の兵を城中に乱入させて放火。西原は舅の重任を恨みながら火中に没した。重任は大口城を頼房に献上し、それ以後は球磨、八代、芦北の兵1,000を交代で入れ、東弾正忠(長兄)・丸目頼美・赤池長任を交番で守らせた。 同年7月、東郷相模守が義滋の三女との婚を求めてきたので、頼房はこれを許した。伊作島津氏の島津忠良はこれを祝して大口領を割譲し、その後、三女が東郷家に嫁いでいった。 同じ頃、天草で騒乱が起こると、栖本氏、志岐氏、有馬氏の連合軍に対すべく、天草氏、上津浦氏、大矢野氏に加勢する為にこちらにも番兵を派兵している。
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