島津久邦とは? わかりやすく解説

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島津久邦

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/05/21 09:26 UTC 版)

 
島津久邦
時代 江戸時代中期 - 後期
生誕 宝暦3年12月20日1754年1月13日[1]
死没 寛政3年2月19日1791年3月23日[2]
改名 直恒(初名)→久邦→鶴汀(号)
別名 通称:木工、豊前、和泉、石見
戒名 太雲院殿鶴汀籌山大居士[2]
墓所 鹿児島県南九州市知覧町郡の島津墓地
主君 島津重豪斉宣
薩摩藩知覧私領主
氏族 知覧島津家
父母 父:島津久峰
兄弟 久徴久邦、佐多直八、佐多直陳
久典
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島津 久邦(しまづ ひさくに)は、江戸時代中期から後期にかけての薩摩藩士。知覧島津家19代当主。

生涯

宝暦3年(1753年)12月20日、島津久峰の三男として生まれる。明和9年(1772年)、父・久峰が死去すると、兄・久容(久徴)は一門の島津加治木家を相続していたため、知覧島津家の家督を相続する。

安永3年(1774年)、藩主・島津重豪の帰国許可の謝恩使として江戸城に登城し、将軍徳川家治に拝謁する。安永7年(1778年)、寺社奉行。安永8年(1779年)、大目付となる。安永9年(1780年)、国分地頭職。同年若年寄。天明7年(1787年)、家老となる。同年、藩主・重豪の参勤に随行して江戸に下った。

寛政3年(1791年)2月19日没、享年39。

脚注

  1. ^ 『知覧町郷土誌』知覧町、1982年、p.269。
  2. ^ a b 『知覧町郷土誌』知覧町、1982年、p.271。

参考文献

  • 『知覧郷土史』



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