島津成久とは? わかりやすく解説

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島津成久

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/12/14 17:43 UTC 版)

 
島津成久
生誕 寛正5年9月15日(1464年10月24日)[1]
死没 天文5年3月4日(1536年4月4日)
改名 菊千代丸(幼名)→重久→成久
別名 三郎太郎、薩摩守
戒名 天倫西賢
氏族 島津薩州家
父母 島津国久
兄弟 成久、忠貞、大野忠綱、吉利秀久、為心(住職)、娘、寺山光久[2]
島津忠廉の長女
菱刈重副室、佐多氏某室、御東(寛庭夫人)、忠興、雪慶院、筑前守、上之城(島津実久室)、西川興久、寺山光久室、上野守、祁答院駿河守、又十郎、尼僧、常陸守室、僧侶
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島津 成久(しまづ しげひさ、寛正5年1月15日1464年2月22日) - 天文5年(1536年))は、薩摩国戦国時代の武将。

島津薩州家3代当主。島津国久の嫡男。母は禰寝重清の娘。弟に大野忠綱、吉利秀久、寺山光久がいる。子に菱刈重副室、島津忠興寛庭夫人島津忠良室)、島津実久室などがいる。初名は忠貞。名は重久ともする。

生涯

明応7年(1498年)に父国久が死ぬと、その2年後にお家騒動が勃発する。子の忠興と共に加世田城の島津忠福を攻め、忠福に加勢した伊作久逸を討ち取る。

娘は8人いたとされ、長女は菱刈重副(菱刈氏13代当主、菱刈重猛・隆秋兄弟の祖父)に嫁ぐ。三女の御東島津忠良に嫁いで島津貴久忠将を産んだ。五女の妙朝は忠興の子の実久に嫁いで義虎を産む。

子の忠興に家督を譲り、隠居しながら後見していたが、忠興が先立って病没したため、孫の実久を後見した。

系譜[3]

  • 父:島津国久(1442~1498)
  • 母:禰寝重清の娘
  • 正室:島津忠廉の長女
    • 長女:菱刈重副の妻 - 菱刈重州の母。法名は大林妙心大姉
    • 次女:佐多氏某の妻
    • 三女:御東(~1563年) - 島津忠良の妻。寛庭夫人。法名は寛庭芳宥大姉
    • 長男:忠興(1486~1525)- 薩州家4代当主。法名は隆岳興公
    • 三男:西川興久 - 西川氏の祖。西川伊勢守と称して鶴田に住む。法名は天倫賢公大禅伯
  • 母不詳
    • 四女:雪慶院 - 比丘尼。法名は松岩妙泉
    • 次男:筑前守
    • 五女:上之城 - 長兄忠興の嫡男島津実久の妻。薩州家6代当主島津義虎の母。法名は妙朝
    • 六女:寺山光久の妻
    • 四男:上野守
    • 五男:祁答院駿河守
    • 六男:又十郎
    • 七女:尼僧
    • 八女:常陸守の妻
    • 七男:僧侶

脚注

注釈

出典

  1. ^ 鹿児島県歴史資料センター黎明館『鹿児島県史料 旧記雑録拾遺 地誌備考四』2017年、7頁https://dl.ndl.go.jp/pid/13590186/1/2 
  2. ^ 日向郷土史料集 第6巻』1963年、235頁。doi:10.11501/9769848https://dl.ndl.go.jp/pid/9769848/1/125 
  3. ^ 鹿児島県歴史資料センター黎明館『鹿児島県史料 旧記雑録拾遺 諸氏系譜3』1989年、445-447,492頁https://dl.ndl.go.jp/pid/13590137/1/3 





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