北郷久定とは? わかりやすく解説

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北郷久定

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/05/21 03:31 UTC 版)

 
北郷久定
北郷久定肖像
時代 江戸時代前期
生誕 正保元年12月22日1645年1月19日[1]
死没 寛文2年7月5日1662年8月18日
改名 久統(初名)→久定
別名 次郎左衛門尉(通称
戒名 松月院殿天心法高居士
墓所 宮崎県都城市都島町の都城島津家墓地
主君 島津光久
薩摩藩都城私領主
氏族 島津宗家北郷氏
父母 父:島津光久、母:松沢氏
兄弟 島津綱久久定忠長、島津久岑、島津久逵、島津久侶、鎌田正長、久理、喜入久亮、島津久明、島津久当、島津久記、桂久祐、畠山基明、入来院重矩島津久房、島津久雄、税所久皎
正室:千代松北郷久直の娘)
養子:忠長
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北郷 久定(ほんごう ひさただ)は、江戸時代前期の薩摩藩士。都城私領主である北郷家16代当主。

生涯

正保元年(1644年)、2代藩主島津光久の次男として鹿児島で生まれる。寛永18年(1641年)、北郷家15代当主の北郷久直は25歳で死去し、男子がなかったため、北郷氏は一時期当主不在となった。

当主不在の間、『都城島津家歴代史 全』によると久直夫人(北郷家12代当主北郷忠能の娘、法号「春嶺良仲大姉」)が家老の補佐を受けながら、明暦2年(1656年)までの16年間都城の治世を行ったとされている。久直夫人の死後、島津宗家の命により久定が久直の娘千代松を娶り、家督を相続した。

『都城市史』によると、忠能の妻(佐土原藩初代藩主島津征久の娘、法号「花庭玉蓮大姉」)や庶子北郷久常は家督相続に対する宗家の介入に抵抗する姿勢を示したが、最終的には宗家の命を受け入れた。島津宗家は北郷家への支配を強化するため、北郷家を監督する上置に島津家中の重臣鎌田政直を配置したり、屋敷の改築を命じたりした。

寛文2年(1662年)、19歳で病死した。継嗣なく、久定の三弟忠長が兄嫁であった千代松を娶り相続したが、この時、島津宗家の命により家名を北郷から島津へと改めたため、それ以降は都城島津家と称するようになった。

脚注

  1. ^ 『鹿児島県史料拾遺 18』鹿児島県史料拾遺刊行会、1985年、p.68。

参考文献




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