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島津久暢

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/26 07:05 UTC 版)

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島津久暢
時代 江戸時代
生誕 元文2年6月20日1737年7月17日
死没 寛政10年5月24日1798年7月7日
改名 長袈裟(幼名)→久定(初名)→久暢
別名 又六郎、出雲、若狭、山城、左衛門(通称)
墓所 鹿児島県日置市日吉町日置日置島津家菩提寺(吉富山大乗寺跡)
主君 島津継豊宗信重年重豪
薩摩国薩摩藩
氏族 島津氏
父母 父:島津久甫、母:種子島久達の娘[1]
正室:於徳(島津吉貴の娘)
貴品久尹、久包
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島津 久暢(しまづ ひさのぶ)は、薩摩国薩摩藩家老日置島津家第10代。

家系

日置島津家は、島津宗家15代当主島津貴久の三男島津歳久に始まり、2代島津常久以降に薩摩国日置(現・鹿児島県日置市日吉町日置)を領した。藩内の家格は一門に次ぐ大身分で、元服時に藩主が烏帽子親になる特権を持つ。家紋は日置十文字。明治33年(1900年)に島津久明が男爵に叙され華族となった。

略歴

元文2年(1737年)6月20日、薩摩藩日置島津家嫡男久甫の次男として生まれる。

延享2年(1745年)10月1日、鹿児島城に登城して元服。世子島津宗信が烏帽子親となり、理髪役は国老樺山久初が務め、島津又六郎久定と名乗った。[2]

寛延2年(1749年)父久甫の死去により家督を相続。宝暦11年(1761年)家老就任。藩主重豪に仕え、主席家老を務めた。[3]明暦2年(1765年)家老を退任。[4]

安永3年(1774年)1月11日、隠居して家督を久陳(久尹)に譲る。

寛政10年(1798年)5月24日、死去。

出典

  1. ^ 島津金吾歳久の自害
  2. ^ 島津家系譜
  3. ^ 島津金吾歳久の自害
  4. ^ 薩摩藩家老の系譜

参考文献




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