島津久峰とは? わかりやすく解説

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島津久峰

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/05/21 09:05 UTC 版)

 
島津久峰
時代 江戸時代中期
生誕 享保17年閏5月1日1732年6月22日[1]
死没 明和9年6月19日1772年7月19日[2]
別名 通称:杢
戒名 毅斉院殿君謨元弼大居士[2]
墓所 鹿児島県南九州市知覧町郡の島津墓地
主君 島津宗信重年重豪
薩摩藩知覧私領主
氏族 島津氏知覧島津家
父母 父:島津継豊、母:伊地知氏
養父:島津久豪
兄弟 宗信重年久峰入来院定勝
菊姫黒田重政正室)、樺山久倫室、
鐘(肝付兼伯室)、島津久隆室ほか
久徴久邦、佐多直八、佐多直陳
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島津 久峰(しまづ ひさたか)は、江戸時代中期の薩摩藩士。知覧島津家18代当主。名は久峯とも表記する。

生涯

享保17年(1732年)、藩主・島津継豊の三男として生まれ、家老・島津久豪の養子となる。延享2年(1745年)、養父の死去により家督を相続する。寛延2年(1749年)、藩主の兄重年の家督相続御礼言上の登城に同行して、江戸城将軍徳川家重に拝謁する。宝暦3年(1753年)、若年寄となる。同年、谷山地頭職。

宝暦9年(1762年)、若年寄を免じられ、引き続き月番国老として家老と共に国政に参画することを命じられ、席次を当時の筆頭家老で大身分の宮之城家島津久亮の上席とされる。宝暦10年(1763年)、末吉地頭職。宝暦13年(1766年)、出水地頭職。同年、病を理由に職を辞することを願い出て許された。

明和9年(1772年)6月19日没、享年41。

脚注

  1. ^ 『知覧町郷土誌』知覧町、1982年、p.262。
  2. ^ a b 『知覧町郷土誌』知覧町、1982年、p.268。

参考文献

  • 『知覧郷土史』



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