島津久徴 (日置家)とは? わかりやすく解説

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島津久徴 (日置家)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/01/24 18:20 UTC 版)

 
島津久徴
時代 江戸時代後期
生誕 文政2年4月13日1819年5月6日
死没 明治3年4月5日1870年5月5日
改名 三千千代→益熊→常千代→哲丸(幼名)→久徴
別名 又六郎(初名)、下総、左衛門(通称
墓所 鹿児島県日置市の大乗寺
主君 島津斉興斉彬忠義
薩摩藩
氏族 日置島津家
父母 父:島津久風、母:末川久泰の娘
兄弟 久徴赤山靭負、男子、田尻務(田尻種賢)、桂久武
正室:種子島久道の娘
久明、歳寛、健(島津久宝後室)
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島津 久徴(しまづ ひさなが[1])は、江戸時代後期の薩摩藩家老。島津庶家日置島津家の13代当主。

生涯

文政2年(1819年)、日置島津家12代当主・島津久風の嫡男として誕生する。

父の久風は27代藩主島津斉興に寵愛されたが、次期藩主をめぐって相続問題が起こると、久徴は斉興が推す庶子忠教(久光)ではなく嫡子の斉彬を推し、実弟の赤山靭負田尻務桂久武らと日置派をつくって、お由羅騒動の際は斉彬の擁立に奔走した。

無事に斉彬が藩主になると重用されて、その主席家老を務めたが、斉彬の死後は島津久宝と対立、主席家老の座より退く。大久保利通らは29代藩主島津忠義へ久徴を主席家老へ戻すよう願い、その甲斐あって再び返り咲いたが、島津久光の公武合体論に反対したため再び退くこととなった。

文久3年(1863年)、薩英戦争が起こると薩軍の総大将を務めた。明治3年(1870年)に死去。享年52。

脚注

  1. ^ 『島津歳久の自害(増補改訂版)』 (島津修久著)に記された読み。

参考文献

  • 『島津歳久の自害(増補改訂版)』 74頁 ”十三代島津久徴” (島津修久著 島津顕彰会、2000年10月)



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