島津久龍とは? わかりやすく解説

島津久龍

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/07/23 01:21 UTC 版)

 
島津久龍
島津久龍像(都城島津家資料館所蔵)
時代 江戸時代前期 - 中期
生誕 延宝6年(1678年
死没 元文5年1月20日1740年2月17日
改名 幸寿丸(幼名)→忠置(初名)→久龍
別名 権十郎、伊豆(通称
戒名 天徳院殿哲山玄高大居士
墓所 宮崎県都城市都島町の都城島津家墓地
主君 島津吉貴継豊
薩摩藩都城私領主
氏族 都城島津家
父母 父:島津久理、母:入来院重頼の娘
兄弟 万亀、久龍入来院規重
正室:前田時尚の娘
御山、阿久里、松次郎、於竹、御熊、於栄、久道、久茂、久綿
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島津 久龍(しまづ ひさたつ)は、江戸時代前期から中期の薩摩藩士。都城私領主である都城島津家19代当主。

生涯

延宝6年(1678年)、18代当主島津久理の長男に生まれる。貞享5年(1688年)、鹿児島に於いて祖父であり二代藩主島津光久の加冠により元服し、忠置と名乗る。

元禄13年(1700年)、従兄の島津綱貴に随って江戸へ赴き、将軍徳川綱吉に拝謁し、太刀、馬代金、小袖を献上する。元禄15年(1702年)、久理の隠居に伴い都城島津家を相続する。同16年(1703年)、都城家歴代の家宝を近衛家を通じて天覧に供し、叡感の宸筆を賜る。宝永3年(1706年)、家臣の永井常喜(慶竺)に命じ、高麗虎狩図屏風を描かせる。この屏風は都城島津家に現存している。

正徳3年(1713年)、島津宗家から都城家の嫡男は「久」の字、次男以下は「資」の字を用いるよう命ぜられたので、「忠置」を「久龍」に改める。

享保2年(1717年)、将軍家から島津宗家に判物が下された謝礼を言上するため、島津宗家の代理として江戸へ赴き、将軍徳川吉宗に拝謁する。

元文5年(1740年)、63歳で死去。龍峰寺に葬られた。

参考文献

  • 瀬戸山計佐儀『都城島津家歴代史 全』三州文化社、1992年
  • 『都城市史』
  • 『都城盆地 史跡ガイドブック ①旧都城市編』南九州文化研究会、2014年




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