島津忠卿とは? わかりやすく解説

島津忠卿

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/11/11 06:14 UTC 版)

 
島津忠卿
時代 江戸時代
生誕 寛保2年2月12日1742年3月18日[1]
死没 宝暦4年11月13日1754年12月26日
別名 三次郎、因幡
戒名 寿祥院殿量阿翠大居士[2]
墓所 鹿児島県指宿市今和泉島津家墓地(光台寺跡)[2]
主君 島津継豊
薩摩藩
氏族 島津氏
父母 父:島津吉貴、於坂(近藤嘉包の娘)[1]
兄弟 継豊貴儔、忠紀、久亮、貴澄、忠卿忠温
養子:忠温
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島津 忠卿(しまづ たださと)は、今和泉島津家第6代当主。薩摩藩島津吉貴の七男。

生涯

寛保2年(1742年)、薩摩藩4代藩主島津吉貴の七男として生まれる。当時、吉貴は既に藩主を退き隠居の立場であった。[1]延享元年(1744年)、兄の5代藩主島津継豊の命で、一門和泉家の名跡を相続して、今和泉家を創設する。十文字紋と桐紋使用を許され、揖宿郡の内小牧村、岩本村、西方村、頴娃郷の内池田村、仙田村、利永等を知行地として与えられた。[2]和泉家は、島津家第4代忠宗の次男・忠氏に始まる家で、応永24年(1417年)川辺城の戦いで5代当主直久が戦死して以来長らく絶えていた。

宝暦4年(1754年)11月13日、死去。享年13。家督は、実弟・安之助(忠温)が、養子入りしていた小松家との養子縁組を解消して相続した。後に今和泉家からは、13代将軍家定正室の天璋院を出すこととなる。

出典

  1. ^ a b c 島津氏の縁組
  2. ^ a b c 指宿市誌

参考文献





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