町村制施行以前
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上野は延享元年まで薩摩国頴娃郡頴娃郷(外城)仙田村(現在の指宿市開聞仙田)の一部であり、現在の開聞上野にあたる区域は上野方限を形成していた。 延享元年に島津忠卿が応永24年に川辺城の戦いで和泉家当主であった直久が戦死して以降、断絶していた和泉家を継ぎ今和泉島津家と称した。その際に指宿郷及び頴娃郷の一部から割譲され、今和泉家の私領として今和泉郷が編成された。「頴娃郷旧跡帳」によれば、今和泉郷の編成に伴って仙田村のうち上野方限及び尾下方限、利永方限の区域が頴娃郷から今和泉郷に割譲され、利永村が編成された。これにより上野方限は薩摩国揖宿郡今和泉郷(外城)利永村のうちとなった。
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町村制施行以前
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/11 14:56 UTC 版)
明治維新により浜松城が廃城になると、その土地を優先的に払い下げられた士族や肴町の商人達が移り住み、1882年(明治15年)にそれまで浜松城内の小字だった作左、馬冷、袋町の三つの字を併せて一つの町とし、「松城」と名付けられた。「作左」は浜松城の西側に位置し、その由来は徳川家康の重臣、「本多作左衛門重次」が曲輪をここに構えたことによる。1678年〜1702年まで浜松城の城主だった青山氏の時代に作成された資料「御家中配列図」(青山家旧蔵)によるとこの辺りは「作左」とだけ記されていることから、江戸中期には曲輪はすでになく、地名として定着していたと考えられる。作左の名は、今でも浜松城公園の中に「作左山」、「作左の森」として残されている。「馬冷」の地名は浜松城の武士(徳川家康とも)がここにあった池で馬を冷やしたという伝説が残されていることを元に名付けたという。前述の「御家中配列図」によると、ここに馬冷池という小さな池が記されているが、現在は埋め立てられていて存在しない。袋町は武家屋敷が密集し、町並みが窮屈で袋小路のように連なっていたことに由来する。浜松市中央図書館の場所に浜松城の出丸があり、紺屋町へ出る境には「榎門」という城門があった。
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