町村制施行と鹿児島市との境界変更
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「武 (鹿児島市)」の記事における「町村制施行と鹿児島市との境界変更」の解説
1889年(明治22年)4月1日には町村制が施行されたのに伴い、鹿児島近在のうち西別府村、武村、田上村の区域より鹿児島郡西武田村が成立した。それに伴って、それまでの武村は西武田村の大字「武」となった。 1904年(明治37年)、1908年(明治41年)には天保山が大日本帝国陸軍の演習地に編入され、大蔵省の管轄となった。 1911年(明治44年)になり、府県制における鹿児島県の議決機関であった鹿児島県参事会は、西武田村のうち鹿児島市との飛地となっている天保山・八幡田圃及び、武の大半を鹿児島市に編入することを決定した。これに対して西武田村は土地の肥えた水田が多い地域であった前述の区域が鹿児島市へ編入されることは死活問題であるとして大いに反対し、熊本県における市郡の関係を調査したほか、当時内務大臣であった原敬に対して請願を行うなど編入の防止に努めた。 しかし、反対運動の甲斐もなく同年8月4日に鹿児島県公報に掲載された「 市村の境界変更」(明治44年鹿児島県告示第400号)により、同年9月30日を以て大字武のうち、小字大坪、森田、一町田、溝添、前田、西牟田、下小田崎、永田、上小田崎、榎田、冷水、小汐手、小丸、南牟田、二枝、三枝、浮牟田、番田、島廻、堀之口、川ノ口、堤内、一貫地、塚濱、入物田、汐入、天保山、四ツ枝、雪之口、濱田、大水町、宮田、八反田、上山田、栗木田、中福羅、城本、砂走、大鍋、福廻が隣接する鹿児島市に編入された。これにより、鹿児島市を挟んだ飛地となっていた通称「八幡田圃」(現在の鹿児島市立甲南中学校付近)にあたる小字川ノ口、堤内、一貫地、塚濱、入物田、汐入、四ツ枝、雪之口、濱田の区域が高麗町に編入され、通称「天保山」(現在の天保山町の北半分)の区域にあたる小字天保山の区域が下荒田町にそれぞれ編入され、また鹿児島市に編入された大字武のその他の区域を以て新たに鹿児島市の町「武町」が設置された。編入時の鹿児島市武町の人口は724人、世帯数は156戸であった。また、この編入によって四十九町一反二畝一歩の水田が鹿児島市に編入され、西武田村大字武に残った水田は僅かに一町二反二畝十九歩であった。
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