町村制施行から第二次世界大戦まで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/10 22:57 UTC 版)
「田上 (鹿児島市)」の記事における「町村制施行から第二次世界大戦まで」の解説
1889年(明治22年)には町村制施行に伴い鹿児島近在のうちの田上村及び武村、西別府村の区域より鹿児島郡西武田村が成立した。それに伴ってそれまでの田上村は西武田村の大字「田上」となった。蛭田には西武田村役場が置かれた。 1911年(明治44年)9月30日には、「 市村の境界変更」(明治44年鹿児島県告示第400号)により、鹿児島市大字荒田のうち城ヶ平、芝生迫、笠松平、高原、高榮迫、陣ヶ平、陣ヶ迫、丸岡、境迫、小原、大原、美代原、久見木迫、大迫、陣ヶ尾、陣ヶ原、馬籠、岸ノ下、内城が鹿児島郡西武田村大字田上に編入された。 1914年(大正3年)1月12日に鹿児島湾を震源として発生した桜島地震の影響により字域内の天神ヶ瀬戸において県道が高さ約3.6m、長さ約54mにわたって崩壊した。当日に発生した桜島の大噴火(桜島の大正大噴火)により鹿児島市街から鹿児島郡谷山村大字山田(現:鹿児島市山田町)に向け避難中であった20名以上が下敷きとなり、鹿児島警察署の巡査、西武田村・谷山村の村民により救助作業が行われたが9名が死亡した。その他にも田上川の堤防に亀裂が生じたり、田上尋常高等小学校(現在の鹿児島市立田上小学校)において亀裂が入り液状化現象が発生した。 1927年(昭和2年)に鹿児島県によって発刊された「桜島大正噴火誌」には天神ヶ瀬戸の被害について以下のように記録されている。 .mw-parser-output .templatequote{overflow:hidden;margin:1em 0;padding:0 40px}.mw-parser-output .templatequote .templatequotecite{line-height:1.5em;text-align:left;padding-left:1.6em;margin-top:0}谷山村山田へ向け避難せんとする途中鹿児島郡西武田村田上字天神ヶ瀬戸を通過せんとする折しも午後六時過ぎの強震襲来して高さ二十余間の断崖絶壁は轟然たる一大音響の下に崩壊し、幅約九尺の道路は長さ十二、三間に渉りて土砂を以て埋められ九名の圧死者を生じたれば鹿児島警察署は巡査を派遣し谷山、西武田、両村民多数出で十一日の日子を要し延人千三百五十三名の人員を使役して漸く其死体を発掘したりしが其惨状実に言語に絶せりと。 —桜島大正噴火誌 1934年(昭和9年)8月1日に西武田村が鹿児島郡中郡宇村及び吉野村と共に鹿児島市に編入された。同日発行の鹿児島県公報に掲載された鹿児島県告示「 鹿兒島市内大字名廢止町名改稱竝ニ區域變更」により「田上ヲ廢止シ其ノ區域ヲ田上町(タガミテウ)ト」することが鹿児島県知事によって許可され、西武田村の大字田上を廃し、その区域を以て新たに鹿児島市の町「田上町」が設置された。 第二次世界大戦中の1945年(昭和20年)4月8日には田上町付近においてアメリカ軍による空襲が行われ(鹿児島大空襲)、空襲によって田上国民学校(現在の鹿児島市立田上小学校)の校舎が一部倒壊する被害を受けた。
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