新西方村の成立
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/25 06:58 UTC 版)
「新西方 (指宿市)」の記事における「新西方村の成立」の解説
延享元年に島津忠卿が応永24年に川辺城の戦いで和泉家当主であった直久が戦死して以降、断絶していた和泉家を継ぎ、今和泉島津家と称し、その際に指宿郷及び頴娃郷の一部から今和泉家の私領として今和泉島津郷が編成され、指宿郷西方村のうち半分の区域が分割され新西方村として分村され、新西方村は今和泉郷(外城)に属した。 新西方村は薩摩国揖宿郡今和泉郷(外城)に属し、村高(石高)は「三州御治世要覧」では「指宿郷内西方村ヨリ分ル」と記載されており村高の記載はない。「旧高旧領取調帳」では447石余であったと記載されている。
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