日置の成立と荘園
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/13 01:48 UTC 版)
日置という地名は鎌倉時代から見える地名であり、薩摩国のうちであった。古代の日置郡の区域は荘園となっており、平安時代末期から存在したという。 日置荘は日置北郷と日置南郷に分かれ、日置北郷はのちに日置郷となる区域である。天正8年に島津義弘の命により島津歳久が日置郷を領地とした。 その後豊臣秀吉の蔵入地となったものの、天正14年(1586年)から天正15年(1587年)にかけて勃発した豊臣秀吉と島津氏との間で起こった九州平定(九州征伐とも)の結果、島津氏が豊臣秀吉に降伏。薩摩・大隅・日向の3国に対して太閤検地が行われることになった。文禄4年(1595年)に、太閤検地が完了したことから豊臣秀吉の命により薩摩国・大隅国・日向国の改易移封が行われた。これによって日置島津家の当主島津常久が領主となった。
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