牧野秀成の粛清
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/21 19:07 UTC 版)
「牧野忠成 (越後長岡藩初代)」の記事における「牧野秀成の粛清」の解説
弟の秀成は通称主水正、江戸の忠成が初めて長岡入りする寛永7年(1630年)までは、長岡に在って兄の留守を守り、家臣に人望があったという。しかし、家臣団の中には武断派と穏健派が秀成の下で派を競う動きがあったともいわれ、忠成の上意により自害させられたとも、誅殺されたとも伝えられる。この出来事との関係性は不詳であるが、寛永14年(1637年)6月6日の彼の死から間もない6月22日に忠成の嫡男光成が急死したことで、その後の牧野家内の継嗣争いに発展した。葬地は栃尾組椿沢(現見附市)の椿沢寺にある。法名は冷光院殿覚了幻心居士。 のちには彌彦神社の旧末社五所宮の五柱の祭神として牧野保成(出羽守)等三柱と共に秀成も祀られていたといい、主祭神大己貴命に加えての牧野家関係者四柱を祀ったのはその怨念を鎮めるためだとも伝えられている。
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