稲垣林四郎家
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「稲垣氏 (牧野家重臣)」の記事における「稲垣林四郎家」の解説
譜代大名となった稲垣氏から分家したもので、同族とは云え越後長岡藩の家老連綿となった稲垣氏から直接、分家したものではない。永禄4年(1561年)7月に今川氏真が西郡在番を命じたが、稲垣重宗の同母弟・林四郎氏連等4~5名が松平元康(後の徳川家康)の下に行ったため、牧野成定が元康に帰服を決断したとしている(出典→岡崎市史・中世編)(異説あり)【稲垣家譜】。このように稲垣林四郎家の家祖である氏連は、牛久保城主・牧野成定が、徳川家康(=元康)に帰服した直接の原因を作ったとする説もある。稲垣林四郎氏連は、家康から60貫文をたまわったが、永禄5年(1562年)9月4日の大塚城の戦いに松平軍として参陣して討ち死にした。この氏連には実子がなかったらしく、能勢氏に養子入りしていた氏連の近親者の能勢甚三が跡式を継いで稲垣姓に復し、牧野家臣として1家を立てたものである。長岡藩における世禄は300石であったが、4代目のときに寄会組に列して着座家とされた。藩の要職に就任して、400石から500石を与えられたこともあった。江戸時代後期に庶子が召し出されて、惣領分30石・新恩70石で100石の別家を立てたため、世禄を270石とした。北越戦争では開戦派に属した。敗戦後は銃士隊長150石となった。
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