稲垣権右衛門家
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/27 10:12 UTC 版)
「稲垣氏 (牧野家重臣)」の記事における「稲垣権右衛門家」の解説
その後、稲垣友左衛門(100石)、稲垣善右衛門(100石)を分出した。嫡子であった稲垣善右衛門が父・小右衛門の家督を、若干の曲折はあったようだが相続して世禄400石となった。しかし、この系はその後、100石の減石処分を受けたとみられ(世禄300石)、長岡家臣に稲垣姓の400石高をみることは長くできない。幕末近くの嘉永3年(1850年)の【家中禄高調】に稲垣権之允400石(寺社奉行)と見える。ついで約10年後の【安政分限】には稲垣小右衛門が400石で見える。【家中禄高調】に見える稲垣権之允の改称が小右衛門であるかは不明である。【安政分限】に400石前後の稲垣姓の家臣は小右衛門以外には存在しない。また当家の100石の加増は、世禄が改訂され旧知に復したのか、一代限りの精勤によるものであったかは、北越戦争後に当家が115石に減石されていることに鑑みれば、世禄300石で一代限りの加恩があったと見られる。当家と真木小太夫家は、高禄大身でありながら、中老・年寄役以上に就任したとする記録は【由緒記】や藩文書などには残っていない。分家として分出された稲垣友左衛門(100石)の系は、その後、若干の加増があり存続した。
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