稲垣太郎左衛門家
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/27 10:12 UTC 版)
「稲垣氏 (牧野家重臣)」の記事における「稲垣太郎左衛門家」の解説
この家系の分家・別家には、次のようなものがある。 まず成心の次男・稲垣成長(権右衛門)も大坂夏の陣で戦功があり、別家となった。 稲垣太郎左衛門之貞の次男茂市之春は、元文4年(1739年)父の勤功により30石を給付され別家となった。その後、世禄の加増があったものとみられ【屋敷高調】、文化9年(1812年)には、稲垣茂市140石とあり、【安政分限】においても140石・稲垣勝三郎と見える。世禄140石据え置きで、番頭にまで昇進することは、長岡藩では非常に珍しい【御家中附】。また北越戦争で敗戦後に長岡藩が大減封を受けたときも、115石に留まり、異例の部類に属する。 また元禄16年(1703年)には稲垣太郎左衛門尚之の次男、尚高が100石で分家として分出されたが、病気で勤務状態が良くないとの評判が立ったため本家に家禄が戻された。あらためて享保17年、別家召しだしを受けた。幕末には稲垣権八を分家として分出して【士族総名順】には稲垣権一(75石)と見える。 稲垣太郎左衛門の末家・源太左衛門家は、与板藩・番頭級の家臣に添えられていた(参照→小諸藩の家臣団)。
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