牧野氏の出自
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/31 16:59 UTC 版)
「三河牧野氏」を参照 藩主牧野家の直接・確実な先祖は、室町・戦国期に三河国宝飯郡(現、愛知県豊川市)の牛久保城主・牧野成定(1525年 - 1566年)であり、現、豊橋市界隈まで影響力を持っていた国人領主であった。当初、牧野氏は徳川家康の父祖代々の家臣ではなく、戦国大名の今川氏に与して三河統一を目指す家康に、真木氏らと共に抵抗していた。永禄8年(1565年)から翌9年頃に恭順・もしくは降伏した歴史を持つ。その頃の所領は6千石から7千石であったとされる。牧野氏は、最盛期には東三河の旗頭たる勢力があったともいわれるが、牧野成定以前の系図は諸説紛々で定説をみない。 家康が天下人の道を歩んだため牧野家は譜代大名となり、国替えにより江戸時代初期には、本藩の長岡藩のほかに支藩を含めて、解釈の仕方にもよるがおよそ10万石の領地を持つまでに成長していた。 長岡藩初代藩主牧野忠成の次男康成(武成)は、1634年(寛永11年)に長岡藩領のうち三島郡与板(與板)の1万石を分与され、長岡藩の支藩として与板藩を立藩した。このときの家臣筆頭は倉地弥治衛門直秀であったが、倉地は与板陣屋には移らず、本藩の長岡に帰参した。 明暦3年(1657年)まで藩主は与板に入らず、23年後にようやく与板陣屋に引っ越しした。そして3代康重が信濃小諸城に実質的な栄転を遂げたのである。
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