松平景忠とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > 百科事典 > 松平景忠の意味・解説 

松平景忠

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/24 02:59 UTC 版)

ナビゲーションに移動 検索に移動
 
松平景忠
時代 戦国時代 - 安土桃山時代
生誕 天文10年(1541年
死没 文禄2年6月3日1593年7月1日
別名 弥九郎[1]、太郎左衛門[1]
戒名 源清[1]
墓所 愛知県蒲郡市五井の長泉寺[1]
主君 徳川家康
氏族 五井松平家
父母 父:松平忠次
兄弟 景忠、正幸
酒井将監の養女[1]
伊昌
テンプレートを表示

松平 景忠(まつだいら かげただ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将五井松平家5代当主。

生涯

4代・松平忠次の子として誕生[1]天文16年(1547年)に父が戦死した際に、景忠は幼少であったが[1]、松平広忠は父祖の忠勤によって家督継承を認め[1]、景忠の叔父にあたる松平信次(長左衛門)に家政を執らせた[1]

永禄3年(1560年)の丸根攻めの際には、若年でありながら戦功を挙げ、松平元康(徳川家康)から褒美の金盃を賜った[1]。永禄6年(1563年)、三河一向一揆勢と矢作川で対陣した際には、家康の命を受けて景忠が配下の松下清兵衛が遠矢を射させ、一揆勢を退けたという[1]。以後、遠江進攻、姉川の戦い三方ヶ原の戦いにも従軍した。長篠の戦いの際には、奥平信昌の加勢として長篠城に入城し、防戦にあたっていた[1]長久手の戦いには弟の正幸とともに参戦し、池田勝入(池田恒興)の軍勢と戦った[1]文禄元年(1592年)の肥前名護屋城出陣にも従った[1]

文禄2年(1593年)6月3日死去[1]。享年53[1]。葬地は愛知県蒲郡市五井の長泉寺[1]

脚注

[脚注の使い方]

注釈

出典

  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q 『寛政重修諸家譜』巻二十七、国民図書版『寛政重修諸家譜 第一輯』p.140

参考文献

外部リンク




英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「松平景忠」の関連用語

松平景忠のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



松平景忠のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの松平景忠 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS