5代景忠以降
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/09 01:46 UTC 版)
幼少で家督を継いだ5代目の松平景忠は、永禄3年(1560年)の丸根攻め以来徳川家康に仕えて数々の戦いに従った。長篠の戦いの折に、景忠と息子の伊昌は長篠城に救援のため入城しており、籠城戦を戦い抜いている。天正18年(1590年)、家康が関東に入国すると、6代目となる伊昌は下総国に2000石の知行地を与えられ、のち海上郡に飯沼陣屋(現在の銚子市陣屋町)を築いて移った。 7代目の松平忠実の時に2代将軍・徳川秀忠から加増を受けて6000石の寄合となった。8代目の松平伊耀は弟の忠尚に500石を分知し、知行高は5500石となった。 10代目の松平忠明のとき、知行地を遠江国に移され、志都呂陣屋(現在の浜松市西区志都呂)を構えて拠点とした。11代目松平忠根は徳川吉宗および徳川家治の御側を務め、その妻は徳川家治と千代姫の乳母として召し出された。12代目松平忠寄も徳川家治の御側を務めている。
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