松平康孝とは? わかりやすく解説

松平康孝

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/10/11 05:49 UTC 版)

 
松平康孝
時代 戦国時代
生誕 不明
死没 天文11年3月18日1542年4月3日
別名 十郎三郎
戒名 礼翁善忠または礼翁禅忠
墓所 西尾市の源空寺
氏族 鵜殿松平家あるいは三木松平家
父母 父:松平信忠
兄弟 清康信孝康孝、久、東姫、矢作殿、瀬戸の大房
康定
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松平 康孝(まつだいら やすたか)は、戦国時代武将松平宗家6代当主・松平信忠の子。松平清康の弟。通称は十郎三郎。鵜殿松平家、あるいは三木松平家初代として考察される人物。

略歴

三河物語』に、松平信忠が「三男十郎三郎殿に見次の郷を譲せ給う」(28頁)とあり、また『三河国二葉松』の「三木村古城」および「浅井村古城」に「清康御弟君松平十郎三郎康孝」(下巻77頁および84頁)とあることから、安祥松平から分出して所領を持っていたと考えられる。

また『松平記』は松平広忠岡崎還住に際し、大久保新八が清康の弟「十郎三郎」に相談したと記し(103頁)『三家考』は康孝が兄・信孝と共に帰還後の広忠を後見したとしている(『徳川実紀』1巻23頁の記述はこれに拠ったものか)。

『三家考』は天文5年(1536年)2月、織田信秀が8,000余りの兵を率いて三河国に侵入したと記す。『松平記』にこの戦いの記述があり「松平十郎三郎」の名が松平方の大将として現われる。『三家考』は「清康の舎弟 松平蔵人 同弟十郎三郎康孝」と明記して、この兄弟が800人の兵を率い「伊田の郷」に布陣して戦ったとしている。

『朝野旧聞裒藁』は『三河国古墳考』ほかを引いて天文11年3月18日卒としているが(1巻616頁以下)『御九族記』には天文15年(1546年)5月とする異説が記されている。

法名は礼翁善忠(『寛永諸家系図伝』1巻105頁『寛政譜』1巻22頁)もしくは礼翁禅忠(『御九族記』)。『三河国二葉松』は院号を「宝琳院」とし「浅井村源空院 在松平十郎三郎康孝墳」と記している(下記刊行本下巻119頁)。

:史料の巻数および頁数はすべて下記刊行本による。

系譜

  • 父:松平信忠
  • 母:不詳
  • 『御九族記』の記す兄弟は次のとおり。康孝は三男とされている。
    • 松平清康
    • 松平信孝
    • 吉良持広の室:「瀬戸之大房」(『寛政譜』2巻『吉良』217頁同じ)
    • 「三州大浜道場」 称名寺・室
    • 松平乗勝(源次郎)の室:松平親乗(和泉守)の母。永禄4年8月2日卒、法名は常左院桂室恭栄、葬地は大樹寺。乗勝の妻が信忠の娘であることは『寛政譜』1巻「大給」55頁に記載があり、また清康の養女であるとも記している。
  • 『三家考』はその子を八郎三郎『康定』とし、始め父の遺領を継いだが早世したとしている。そのため所領は伯父・信孝に併呑されたという。所領が信孝に渡ったことについては『三河物語』『松平記』にも記述がある。
  • また三河国佐々木(佐崎)城主で、1538年頃梅森城(現・愛知県日進市梅森)を築城した松平信次は広忠の叔父にあたり、信忠の子、清康の兄弟とされる。しかし家系図に登場する事はなく、その存在について詳細は不明である。

参考文献

  • 日本思想大系26 三河物語』岩波書店、1974年
  • 『三河文献集成 中世編』所収、「松平記」 国書刊行会、1980年
  • 刈谷市中央図書館所蔵『三家考』請求番号:W4080 ※巻末の附記に「享保乙巳(注・1725年)門人 平元成識」とある
  • 新城図書館所蔵『御九族記』請求番号:こ119
  • 『参河志』下巻 所収「三河国二葉松」歴史図書社、1969年
  • 国史大系第38巻『徳川実紀』第1篇 吉川弘文館、1981年
  • 内閣文庫所蔵史籍叢刊 特刊第1『朝野旧聞裒藁』1巻 汲古書院、1982年
  • 『寛永諸家系図伝』1巻 続群書類従完成会、1985年 
  • 『新訂寛政重修諸家譜』1巻、2巻 続群書類従完成会、1984年

松平康孝

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/06/02 08:56 UTC 版)

鵜殿松平家」の記事における「松平康孝」の解説

天文12年正月1543年2月)に三木松平家松平信孝蔵人佐)が岡崎松平家画策によって追放処分受けたが、その理由として岩津松平家遺領押領にならび、信孝の弟でもある松平康孝の遺領押領したことが挙げられている。このことから康孝に継嗣無く、康孝の跡式を兄・信孝が併合した推測されている。しかし、この康孝の遺領三木の地であったとされ、兄・信孝の三木領所有はこの併合の時からとされている。しかし、康孝は信孝以前三木郷の領主ではあったが、彼の居城同国浅井村現・西尾市)にあったとされ、鵜殿称する根拠は特に史料的に示され形跡が無いため、鵜殿松平家存在には疑問があるとされる追放策により三木郷(当時額田郡、現・岡崎市域)は宗家没収され天文17年4月1548年5月明大寺合戦耳取縄手合戦)に前三木領主・信孝が戦死したため三木松平家断絶し、信孝戦死以後、子の忠重が徳川家康に再属して旗本になったが孫の忠清の時に無嗣のため再び断絶となっている。康孝系の鵜殿松平家に関して詳細不明になっている。康孝の子松平康定八郎三郎)があったという説もあるが、この康定所伝明瞭ではない。なお、同時代深溝松平家第二当主松平好景の弟に松平康定勘解由左衛門)があり、弘治2年1556年若しくは永禄4年1561年)の吉良義昭との戦いで好景以下、兄弟5人・親族20余名戦死した云う。しかし、この康定はこの時に戦死免れたらしく、後年深溝松平家忠日記松平勘解由左衛門の名で頻出している。

※この「松平康孝」の解説は、「鵜殿松平家」の解説の一部です。
「松平康孝」を含む「鵜殿松平家」の記事については、「鵜殿松平家」の概要を参照ください。

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