岩津家の衰退
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永正5年(1508年)旧暦8月、今川氏親名代の伊勢宗瑞率いる今川軍は大樹寺を本陣として岩津城を攻めた(永正三河の乱)。しかし、「岩津殿」は戦に名のある家来もあって少しも動揺せず、城に敵を近寄せない戦いぶりだったために、今川勢も持てあましたという(『三河物語』)。その間に、岩津への救援軍として安祥城の松平長親が井田野に現れると、これを迎え撃った今川軍だったが、長親の戦いぶりに手を焼いて伊勢宗瑞の本陣への肉薄を許すなど苦戦。さらに戸田氏から背後を襲われることを懸念して、今川軍は撤退したという。(『三河物語』)もっとも、今川軍の主要攻撃目標は嫡流である岩津松平家であったため、岩津落城を果たしたのを契機に宗瑞は兵を引いたのだとも考えられている。この合戦の結果、岩津松平家は著しく衰退したと考えられる。 しかし、京都西京雀森の土地(京都市中京区西ノ京勧学院町付近)を所有していたことから、永正の三河の乱の後も岩津親長はずっと在京していたと見られ、親長のこの土地の所有が判る、「三條宰相中将雑掌宛室町幕府奉行人奉書写(士林証文)」について、その日付の永正17年(1520年)3月9日までには親長は死去とする見方(新行紀一)、あるいはこの日までは生存が確認されるとする平野明夫の見方もある。その後、安城家の松平広忠の代に松平信孝は、死去した弟・鵜殿松平康孝の遺領と共に「岩津殿の遺領」をも押領したという(『三河物語』)。もっとも、信孝の横領事件以後にも弘治4年(1558年)正月に岩津源五光則が三河大樹寺にした寄進(大樹寺寄進状写)記録が残されている。なお光則墓のある大樹寺塔中開花院では「岩津殿」と称す。なお、幕末の幕臣で蝦夷共和国副総裁を務めた松平太郎は岩津松平家の血を引くとされる。
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