岩津家の衰退とは? わかりやすく解説

岩津家の衰退

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/05 07:49 UTC 版)

岩津松平家」の記事における「岩津家の衰退」の解説

永正5年1508年旧暦8月今川氏親名代伊勢宗瑞率い今川軍大樹寺本陣として岩津城攻めた永正三河の乱)。しかし、「岩津殿」は戦に名のある家来もあって少しも動揺せず、城に敵を近寄せない戦いぶりだったために、今川勢も持てあましたという(『三河物語』)。その間に、岩津への救援軍として安祥城松平長親井田野に現れると、これを迎え撃った今川軍だったが、長親の戦いぶり手を焼いて伊勢宗瑞本陣への肉薄を許すなど苦戦。さらに戸田氏から背後襲われることを懸念して今川軍撤退したという。(『三河物語』)もっとも、今川軍の主要攻撃目標嫡流である岩津松平家であったため、岩津落城果たしたのを契機に宗瑞は兵を引いたのだとも考えられている。この合戦結果岩津松平家著しく衰退した考えられる。 しかし、京都西京雀森土地京都市中京区西ノ京勧学院町付近)を所有していたことから、永正三河乱の後岩津親長はずっと在京していたと見られ、親長のこの土地所有判る、「三條宰相中将雑掌室町幕府奉行人奉書写(士林証文)」について、その日付の永正17年1520年3月9日までには親長は死去とする見方(新行紀一)、あるいはこの日までは生存確認されるとする平野明夫の見方もある。その後安城家の松平広忠の代に松平信孝は、死去した弟・鵜殿松平康孝遺領と共に岩津殿の遺領」をも押領したという(『三河物語』)。もっとも、信孝の横領事件以後にも弘治4年1558年正月岩津五光則が三河大樹寺にした寄進大樹寺寄進状写)記録残されている。なお光則墓のある大樹寺塔中開花院では「岩津殿」と称す。なお、幕末幕臣蝦夷共和国副総裁務めた松平太郎岩津松平家血を引くとされる

※この「岩津家の衰退」の解説は、「岩津松平家」の解説の一部です。
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