岩津松平家の発祥
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/05 07:49 UTC 版)
『三河物語』によれば、松平氏第二代とされる泰親は松平郷を出て岩津の城を強奪し居城としたという。初代親氏の時に討伐して屈服させたという「中山十七名(中山七名とも)」の一つ、加茂郡林添(豊田市林添)の藪田氏の残党が松平党を悩ませていたという。泰親は反対勢力の根絶を図るべく奧岩戸の岩戸大膳(岩津大膳・中根氏)を夜に岩津の城を急襲して攻め落とした。岩津大膳は切腹して果て、泰親がこれに移ったという。これらの伝承について、応永28年(1421年)に武力奪取と推定する説や、岡崎市岩津町の若一神社棟札写しの「大檀那松平用金」の在銘が泰親の法名用金(ゆうきん)であることおよびその日付により、この岩津城進出が応永33年(1426年)以前としながらも、この進出は武力ではなく買得によるものと推論する説もある。
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