岩津家の一族
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松平信光は、40人余りの子があったという伝承もあるが、鼠算式に多数の松平庶家、すなわち、守家(竹谷祖)・親忠(安城祖)・與副(形原祖)・光重(大草祖)・光英(宮石)・元芳(五井・深溝祖)・光親(能見祖)・家勝(丸根)・親正(牧内)・親則(長沢祖)の各庶家を分出した(「松平総系図」)。 しかし研究者の考証によれば、守家(竹谷)・与副(形原)・光親(能見)・親正(牧内)・光央(宮石)・光直・右馬之助・算次・中務・親勝(岩津)・算則(岩津)・光算(岩津)・親世(細川)・親光(押鴨)および出家者の昌竜(安穏寺)・燈翁(妙心寺)・唱阿(蓮華院)を加えた17人が信光の子に挙げられている。 さらに、岩津庶子家については、「松平七人の衆」(「貞享年間書上」、松平忠明が幕府提出)というものもある(『譜牒余録』)。 松平忠明「貞享年間書上」の記述では、「これを松平の七人衆と言って、岩津殿(岩津太郎)は御惣領なので、これを除けて松平の七人衆というのである。この(岩津殿を含めた)八人より諸々の松平が分かれたというのである」とし、松平氏の宗家は岩津太郎であって、これを除いた以下の七家はすべて、「岩津ノ庶子」としている。 形原又七郎、(形原)、松平紀伊守。 安城二郎三郎、(安城)、御家(徳川家)。 大きう源八郎、(大給)、松平和泉守。 岡崎大膳亮、(大草)、安城出身の松平清康に岡崎を追われる。 竹屋与二郎、(竹谷)、松平玄蕃允。 五井弥九郎、(五井)、松平外記・弥三郎。 長沢源七郎、(長沢)、松平上野介。 信光代分家(岩津庶家)一覧人 名通 称官 名 等名 称推定所領備 考守家源二郎または与二郎 左京亮 竹谷 宝飯郡竹谷(蒲郡市竹谷町) 文亀元年(1501年)の大樹寺田地寄進状にて故松平左京亮の伊賀塚本の領有とその子とされる竹谷弥七郎の存在が知られる 乗元源次郎 加賀守 大給 額田郡大給(豊田市大内町) 諸書は親忠の子とするが、乗元の天文3年(1534年)92歳没から、『三河物語』の大給城を賜った源次郎は『蔭涼軒日録』の1487年-1493年に登場する「松平加賀守」と同一人物とされる 親忠二郎三郎 右京亮 安城 碧海郡安祥(安城市安城町) 安城松平家初代(徳川氏祖) 與副彦太郎 佐渡守・右兵衛尉 形原 宝飯郡形原(蒲郡市形原町) 額田郡中山領内700貫文の地から50貫文加増で形原に移住という 光重彦六郎 紀伊守・入道栄金 大草 額田郡大草(幸田町大草) のち、旧城主西郷頼嗣の娘を娶り、岡崎城に移住 光英八郎左衛門尉 実名は光央とも 宮石 額田郡宮石(岡崎市宮石町) 元芳弥三郎 大炊介、実名は正則とも 岩津 額田郡岩津(岡崎市岩津町) 額田郡一揆鎮圧の功により、額田郡深溝および宝飯郡五井に所領を得る 親則源七郎 備中守 長沢 宝飯郡長沢(豊川市長沢町) 一説に岩津から大沼村長沢(豊田市)に移住したとする 光親弥市郎 次郎左衛門尉 能見 額田郡能見(岡崎市能見町) 一説に光親は信光の聟という 家勝源八郎 美作守 丸根 丸根(豊田市丸根町?) 『寛永諸家系図伝』に信光の子とあり 親正 修理亮 牧内 碧海郡牧内(岡崎市大和町・東牧内町) また、文亀元年(1501年)の『丸根家勝等連判禁制』(大樹寺文書)の署名者には、岩津源五光則・岩津大膳入道常蓮・岩津弥九郎長勝・岩津弥四郎信守・岩津八郎五郎親勝・岩津源三算則など「岩津」を称する氏名も多数見られ、系譜関係は明瞭ではないが、当時岩津に居た松平氏一族とされている。
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