岩津家宗家時代の発展
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/05 07:49 UTC 版)
二代泰親の代には有徳人としての経済活動で松平氏は力を蓄え、室町幕府の政所執事伊勢氏に仕えて政権中央との関係を結びながら三河国内のみならず京都・近江国にまで活動範囲を広げた。「松平益親、近江国菅浦荘春成公事銭請取状」(菅浦文書)。 泰親の跡は嫡子信光に嗣がれ、第三代信光の頃にはこれら経済活動による買得の地に加え、寛正6年(1465年)の額田郡一揆の鎮圧で有力武士としての存在を示して三河国内に恩賞の地を得るなど、武士的活動で得た所領も含めて各所に一族庶家を分出させた。 一方、信光の嫡子・岩津修理亮親長は文明8年-12年(1476年-1480年)京都で伊勢氏に勤仕した記録が残る。しかしこの急激な発展は、こののち三河国内・外の勢力から反発を受けて攻撃されることになる。すなわち、「明応井田野の合戦」や今川氏が伊勢宗瑞(北条早雲)に松平氏討伐を命じた永正三河の乱の戦いである。明応の政変後、細川政元派となった中条氏が額田郡一揆の際に細川成之派となっていた松平氏を攻めたと推定され、永正5年(1508年)6月、帰京した足利義材によって遠江守護に復した今川氏は、対立する足利義澄・細川成之派の松平氏を標的にしたとする。
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