松平親俊
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松平親俊像(宝泉院蔵)
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時代 | 戦国時代 |
死没 | 天正9年7月12日[1](1581年8月21日) |
別名 | 三郎次郎[1]、左馬助[1]、右京亮[注釈 1] |
戒名 | 桑心[1] |
墓所 | 愛知県安城市福釜町の松平墓地 |
主君 | 松平広忠→徳川家康 |
氏族 | 福釜松平家 |
父母 | 父:松平親次 母:久松定俊の娘[1] |
兄弟 | 親俊、上田元秀、盛次[1] |
妻 | 奥平定延の娘[1] |
子 | 康親[1] 養子:久恒 |
松平 親俊(まつだいら ちかとし)は、戦国時代の三河国の武将。福釜松平家3代当主。通称は三郎次郎[1]。
生涯

福釜松平家2代・松平親次の子。『寛政重修諸家譜』(以下『寛政譜』)によれば、親次は享禄3年(1530年)の宇利城の戦いで戦死したとする[1]。ただしこの戦いで戦死したのは福釜家初代の親盛であるともされ、『安城市史』では親次を大永元年(1521年)生まれ・天正3年(1575年)没とする[2]。
親俊は松平広忠、徳川家康に仕え、各地の戦いに従事して軍功を立てたという[1]。『徳川実紀』によれば、今川義元に命じられて徳川家康(当時は松平元康)が大高城に兵糧搬入を行った際、「松平左馬介親俊」は酒井正親・石川数正とともに先鋒を命じられ、大高・丸根・鷲津の諸城砦から離れた寺部城を攻めて織田方を引き付けた[3][注釈 2]。
天正3年(1575年)、長篠城主・奥平貞昌(のちの奥平信昌)が徳川家に降伏すると、徳川家から派遣されて長篠城に入り、籠城戦を戦うことになる(長篠の戦いも参照)[4]。
天正9年(1581年)6月、家康が遠江国二俣城に進発した際に同行する[1]。しかし、「鳥羽山の御陣所」(鳥羽山城)にて急病を発し、家康自らが薬を処方した上、福釜に帰された[1]。同年7月12日死去[1]。
『寛政譜』によれば、初代親盛から4代康親までは福釜の宝泉院を葬地としたという[5]。現代では宝泉院の西100mほどの場所にある「松平墓地(福釜城主墓域)」に、初代親盛から5代康盛[注釈 3]までの福釜松平家歴代の墓が移されている[6][注釈 4]。宝泉院には福釜松平家初代親盛・2代親次・3代親俊の肖像画があり、安城市指定の文化財となっている(指定名は「絹本著色 福釜松平三代像」)[4]。
系譜
『寛政重修諸家譜』(以下『寛政譜』)によれば、はじめ酒井忠次の四男・松平久恒(甚三郎)を養子に迎えた。しかし、その後「ゆへありて」実家に帰った[1]。ただし久恒はその後も「松平甚三郎」を称しており、その子孫は出羽庄内藩酒井家の重臣として続くことになる。
実子の松平康親が跡を継いだ。康親はまだ幼年であった(「いまだいとけなし」)が[注釈 5]、型通りの家督相続が認められたと記されている。
脚注
注釈
出典
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r 『寛政重修諸家譜』巻四「松平 福釜」、国民図書版『寛政重修諸家譜 第一輯』p.20。
- ^ 安城市図書情報館(回答) (2020年5月26日). “松平(三郎次郎)親盛の息子は親次だけか?…”. レファレンス協同データベース. 2022年9月19日閲覧。
- ^ a b 『東照宮御実紀附録』巻一、経済雑誌社版『徳川実紀 第一編』p.137 / 内藤耻叟校訂『徳川実紀 巻11−22』p.8。
- ^ a b “絹本著色 福釜松平三代像”. 安城市文化財図録. 安城市. 2022年9月17日閲覧。
- ^ 『寛政重修諸家譜』巻四「松平 福釜」、国民図書版『寛政重修諸家譜 第一輯』p.19。
- ^ a b “安城歴史の散歩道 福釜松平と箕輪・高棚の社寺めぐり”. 安城市教育委員会. 2022年9月19日閲覧。
参考文献
- 『寛政重修諸家譜』巻第四「松平 福釜」
- 『寛政重修諸家譜 第一輯』(国民図書、1922年) NDLJP:1082717/20
- 『新訂寛政重修諸家譜 第一』(続群書類従刊行会、1964年)
外部リンク
- 松平親俊のページへのリンク