発祥についての『寛政譜』での考証
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/08 00:35 UTC 版)
「西福釜松平家」の記事における「発祥についての『寛政譜』での考証」の解説
『寛政譜』の按文は以下のように疑義を挙げ、福釜松平家(特に松平親次・松平親俊親子)の事績との混同の可能性を指摘している。なお、福釜松平家は松平長親(親光の兄)の次男・松平親盛を始祖とする家である。 『寛永系図』では、親良は信乗の子ではなく、信乗の兄である。 親光・親良らの軍功について、幕府公式記録で確認できない。 親光が宇利城攻めで討ち死にしたというのは、幕府公式記録や大樹寺の記録によって、松平親次の事績と混交したものであると言える。 親良が誕生したという天文14年(1545年)時点で、福釜の東端は松平康親(親俊の子)の所領である。 また『寛政譜』では以下のような「或説」があることを記す。 この家の祖は、福釜松平家の松平親盛の末子・甚三郎親長である。親長の子が親常、親常の子が行隆である。 刑部丞親光の長男が兵庫入道親良、その子が甚三郎親長、とする「或本」もある(親長以後は親常、行隆と続く)。 『寛政譜』は系図の混乱について、本家の中断(後述の理由で『寛永系図』には松平行隆の家の記述がない)や断絶などの事情があり、行隆の父祖がはっきりしないために後年あれこれ付会したためであろうとしている。ただし三河以来の旧家であることについては家説の通りであろうとし、行隆よりの系譜を載せている。
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