発祥と背景
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オートマタの起源は人形の起源にまでさかのぼる。娯楽のためだけではなく宗教的な儀式などに用いられた人形や仮面のなかには部分的に可動するものもあり、操作することにより伝承などの効果的な補助として使われていた形跡がある。こうした試みは、人間が自ら仮面をつけたり人形を操作するという動力によって動いていたが、機械的な仕掛けにより自動で動くという演出を付加することで、人形(ひとがた)信仰においてあたかも人形に魂が入っているかのように見せることができる。人形を作り、それが動く(動かす)というテーマはユダヤ教のゴーレムやギリシア神話のタロースでも明らかなように、人間にとっては根源的なテーマであり、創造主としての神への挑戦といった面も垣間見える。 一方、オートマタのもうひとつの要素である機械仕掛けは、単に人形の稼動部分を人間が直接動かすという段階を経た後、古代ギリシアにおいてより洗練される。アルキメデスの螺旋や同時期に発明されたといわれる歯車、サイフォン、水力、滑車などの技術が生まれる。アレクサンドリアのヘロンが作ったといわれるコインを入れると水が自動で出る装置やビザンチウムのフィロンにより、シンプルな仕掛けであるが自動装置と呼べるものが作られた。
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発祥と背景
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純文学と大衆文学の接近は、大正時代に菊池寛や久米正雄が家庭小説へ転身するのを背景に、芥川龍之介の1926年「亦一説?」での「大衆文芸家ももっと大きい顔をして小説家の領分へ切り込んで来るが好い。さもないと却って小説家が大衆文芸家の領分へ切り込むかもしれぬ」という気運に現れ始める。またプロレタリア文学においても、小林多喜二は荒木又右衛門や宮本武蔵を読むように自分の作品を読んでほしいと言い、1928年のナップ(全日本無産者芸術連盟)での芸術大衆化論争でも林房雄は髷物から学ばねばならぬと主張したが、純文学と通俗小説の分離は明白となっていった。1935年には広津和郎は、純文学の新聞連載小説掲載を目指す「陣地回復」を主張した。 これらに続いて、新感覚派として活動しながら純文学の行き詰まりを感じていた横光利一は、「純粋にして大衆的な文学」「純文学にして通俗小説」という「純粋小説論」(1935年)を提唱し、プロレタリア文学出身の武田麟太郎は、その転向の方向性として私小説ではなく世相を題材とする方向に進む。またこの頃から娯楽小説誌『オール讀物』や大衆誌『日の出』などに、私小説から出発した丹羽文雄や、高見順、林芙美子ら純文学系の作家の都会派風俗小説、井伏鱒二、尾崎一雄らのユーモア小説が掲載されるようになる。戦後になると、新戯作派や戦後派文学の勃興と並んで、丹羽文雄、石坂洋次郎、舟橋聖一、石川達三、井上友一郎ら既成リアリズムの流れを汲む風俗小説を発表するようになる。 「中間小説」という言葉は、1947年の雑誌『新風』(大阪書房)4月号の座談会で、林房雄の「日本の小説を発展させる道は純文学と大衆小説の中央にある」との発言に対して、久米正雄がそれを「中間小説」と呼んだのが最初とされる。林は「ポーからオー・ヘンリーまでの間を狙っている」「中央小説」とも表現している。この語はこの年から翌年にかけて次第に広まって、山田克郎の1949年直木賞受賞の感想でも「林房雄氏の提唱される中間文学を仕事の場と考へている」と述べられた。 他に用語としては、戦前の総合雑誌の中で随筆など肩の凝らない読み物を「中間読物」と呼んでおり、昭和9年に評論家の新居格が純文学の一側面について「中間文学」という言葉を使った。
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