発祥と深溝家の分出
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/09 01:46 UTC 版)
『寛政重修諸家譜』によれば、松平信光の七男である松平忠景(初名:元芳)が祖であるとされる。2代目の松平元心は松平長親の命を受けて深溝城を攻め落とした際に弟の松平忠定に功績を譲り、忠定が深溝城を与えられて深溝松平家の祖になったとされる。 ただし、『寛永諸家系図伝』では五井・深溝松平家の祖先の名を「弥三郎元芳」とし、その二男の名を「大炊助忠景」としていた(この「大炊助忠景」の子の忠定が深溝家の家祖とされている)。『寛政譜』の編纂時に、信光の子「弥三郎元芳」と忠定の父「大炊助忠景」は同一人物とし、「弥三郎元芳」は「大炊助忠景」の前名とする系譜が提出され、『寛政譜』では新たな呈譜を採用したという経緯がある。一次史料から、「忠景」は信光の子ではなく孫世代以後の人物とみられ、大永3年から6年(1523年 - 1526年)頃に深溝松平家の当主であったという説が提起されている。 長沢松平家(松平親則を祖とする)・形原松平家(松平与副を祖とする)など、松平信光の子が家祖であると称する松平家の一族は多いが、初期の事績はいずれも曖昧である。江戸幕府草創の頃、これらの家は初代が松平の遠い祖先とつながっているという程度の認識の中で生きており、初代が松平嫡流の何代目とどのような血縁関係にあったかを詮索し確定することに関心は払われていなかったと見られる。 系譜上3代目とされる松平信長は、松平信定(桜井松平家)との抗争の中で松平広忠に従った。4代目の松平忠次は2度にわたって織田信秀の撃退に武功を立てたが(安城合戦)、天文16年(1547年)に松平信孝(三木松平家)の勢力との戦いで戦死している。
※この「発祥と深溝家の分出」の解説は、「五井松平家」の解説の一部です。
「発祥と深溝家の分出」を含む「五井松平家」の記事については、「五井松平家」の概要を参照ください。
- 発祥と深溝家の分出のページへのリンク