発祥と変遷
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/09 23:14 UTC 版)
間諜の歴史は、人類の歴史とともに古く遡ることができる。その発祥については日本発祥説の他に、インド発祥説、中国発祥説などもある。『孫子』用間篇を始め、古来、間および諜を説く兵書は多い。飛鳥時代には、聖徳太子が、大伴細人(おおとものほそひと)を「志能備(しのび)」として用いたと伝えられる地域もあるようだが、『日本書紀』等にそのような記載はない。 忍者・忍術は、源平時代以後に日本で発祥したものである。忍者、忍術は日本国内各地に分かれ、いくつかの集団を形成していた[要出典]。文献上にその名が見られる忍術流派は71流を数え[要出典]、伝書及び資料の確認される流派は31流とする説がある[要出典]。中でも甲賀や伊賀を本拠としていた忍者集団は有名である。これらの場所には多数の忍者屋敷があり、日々の訓練が行われていたと考えられる[要出典]。甲賀と伊賀は、鎌倉時代にはその領地の大半が荘園で木材の供給地だったため守護や地頭による支配を受けなかったが、戦国時代になり荘園が崩壊すると、地侍が数十の勢力に分かれ群雄割拠した。各地侍が勢力を保つため情報収集戦とゲリラ戦が日夜行われ、「忍術」が自然発生したのではないかと考えられている。 伊賀・甲賀・雑賀、さらには柳生・根来等の紀伊半島は、天武天皇が壬申の乱の直前に住んでいた場所であり、後醍醐天皇の南朝が置かれるなど、特殊な霊地が多い。 『太平記』で、高師直が石清水八幡宮焼き討ちに「忍び」を使ったと記されるのが文献上の初見である。長享元年(1487年)の室町幕府将軍・足利義尚率いる幕府軍と六角高頼の戦いでも、六角氏は甲賀・伊賀と連合軍を組んだ。特に伊賀忍者は、古代、琵琶湖が伊賀国内に存在し、そのため土質が農業向きではなく特殊技能を体得し国外へと移動して忍者集団を形成したものという[要出典]。 天正13年、羽柴秀吉によって甲賀の侍衆は改易処分となり甲賀は秀吉の家臣中村一氏の支配となる。これにより甲賀の元侍衆たちは浪人となり没落していく。これを「甲賀ゆれ」と言う。 なお、戦国時代には、伊賀・甲賀組や紀州根来衆の他に甲斐武田氏の透破(三ツ者)、越後上杉氏の鳶加当他、相模後北条氏の風魔党、奥州伊達氏の黒脛巾組、加賀本願寺の修験、伊勢長島一向一揆、出雲尼子氏の鉢屋一党など各地方諸文献に草等の忍者らしき記載が有る[要出典]。
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