発祥と展開
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/13 14:49 UTC 版)
藩、商人、農民に至るまで一体となった藩造酒のプロジェクトは軌道に乗り、延宝9年(1681年)には藩領内の造り酒屋の数は189軒を数え、寛政10年(1798年)には江戸表からの注文200石を受けるまでになった。各地で藩造酒の生産が試みられても、多くが失敗に終わったことを考えると、これは非常にうまくいった例と言わなくてはならない。 なかでも現在の石鳥谷(いしどりや)には藩の御用酒屋があり、藩主に献上する御膳酒を造る杜氏である酒司(さかじこ)が住んでいた。御膳酒はここから警護の兵に守られて盛岡へ運ばれていったという。 こうした藩造酒の技術は農村部で師弟へ伝承されて、やがて藩領の外へ出稼ぎに行く杜氏たちを生み出すことになった。南部藩では、表向きは明治3年(1870年)まで藩外への出稼ぎを禁止していたが、何かと他の口実を与えてやったり、お目こぼしをしたりして、貧農たちが杜氏として藩外で副収入を得ることを積極的に抑えつけなかった。このことも、南部杜氏が今日では国内最大規模の流派を形成するのに貢献したといえる。
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