発祥と反駁の内容
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/25 23:35 UTC 版)
きっかけとなったのは、311年にカルタゴの助祭であったカエキリアヌス(英語版)が同地の司教(主教)に任職された際、彼を叙品した司教の一人であるフェリックスが過去、ディオクレティアヌスの弾圧時に聖書・聖物を官憲に渡し棄教した者であったため、ヌミディアの司教達がこの任職を承認せず、別にマヨリヌスをカルタゴ司教に任じ、マヨリヌス死後には学識と実行力に優れたドナトゥスがカルタゴ司教に立てられたことにあった。この指導者である司教ドナトゥスが、この派の名称「ドナトゥス派」「ドナティスト」の名の由来である。 ローマ皇帝コンスタンティヌス1世は教会の統一を望んで313年にローマで教会会議を開き、ここでカエキリアヌスの地位の正当性が承認されたが、ドナトゥス派はこれに従わなかったため弾圧された。 411年に3日間にわたって行われたカルタゴ会議では、アウグスティヌスがドナトゥス派への反駁の先頭に立った。ドナトゥス派との論争を通じてアウグスティヌスの教会論は確立された。 この論争のテーマは、人の罪がサクラメントの有効性に影響するのかどうかにあった。結局、主流派となった教会においては、神の恩寵は人の道徳面の状態からは影響を受けないこと、罪の無い人間はいないことを根拠として、サクラメントは一度棄教した者によるものであっても有効である事が確認された。 ただしこの確認については、棄教・背教・道徳的退廃をそのまま容認するものではない。教会・信徒の無過失を主張したドナティストに対して、論陣を張ったアウグスティヌスの主張においては、信徒と言えども罪が無い訳では無いこと、そしてそうした罪が悔い改めによって赦されることの重要性が前提として強調される。 カルタゴ会議でも論争に決着が着かなかったのち、皇帝ホノリウスにより統一令が発布され、ドナトゥス派は単なる分派ではなく異端と宣告された(この際に異端と宣告されたことについての評価は教派によって異なる)。414年にはドナトゥス派は全ての市民権を剥奪されている。 ドナトゥス派は異端宣告の後にも、急速に衰退したものの、ヴァンダル人の支配下や東ローマ帝国の支配下にあった時代にまでもなお存続していた。しかしイスラームの北アフリカへの侵入とともに、7世紀頃には消滅した。 ドナトゥス派を巡る論争は、一度離教した者のサクラメントの有効性についてのものであるが、サクラメントの概念自体に疑問符を付けるものではない。カトリック教会の秘跡の概念そのものに疑問符をつけるプロテスタントの登場は、16世紀の宗教改革以降の事である。
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