発祥についての家伝
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/08 00:35 UTC 版)
『寛政譜』編纂時に提出された、松平甚三郎義久・松平田宮栄隆からの家譜によれば、祖先の事績は以下のように語られている。 松平親忠の四男・松平親光(甚三郎、刑部丞)は、福釜のうち西端・榎前・赤松・中・和泉の5か村を与えられた。親光は享禄3年(1530年)に宇利城の戦いでの負傷がもとで死去し、大樹寺に葬られた。親光の子・松平信乗(三郎次郎、甚三郎)は松平広忠に仕えたが、広忠から懐妊した侍女を妻として賜わり、天文14年(1545年)に生まれた子供が松平親良(甚三郎、兵庫頭)である。親良の誕生に際して、福釜の東端に加恩の地が与えられた。松平親良は、徳川家康に仕えて関東に移ったが、「所存あり」として知行地を受けず、婿である本田正家(主膳)の知行地である下総国葛西に寓居した。元和9年(1623年)に没し、自らが開基となった四谷の法蔵寺に葬られた。親良の子が行隆である。
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