松平親良とは? わかりやすく解説

松平親良

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/01/06 05:26 UTC 版)

ナビゲーションに移動 検索に移動
 
松平 親良
松平親良
時代 江戸時代後期 - 明治時代
生誕 文化7年2月23日1810年3月27日
死没 明治24年(1891年2月3日
改名 滝之助(幼名)→親良
戒名 清陵院
墓所 東京都台東区松が谷海禅寺
官位 従五位下、従四位下、河内守、中務大輔
幕府 江戸幕府寺社奉行
豊後国杵築藩
氏族 能見松平家
父母 父:松平親明
兄弟 親良、勝敬、親淳、親直
正室:松平乗全の娘
親貴永井直矢、娘(西尾忠篤正室)
テンプレートを表示

松平 親良(まつだいら ちかよし)は、豊後杵築藩の第9代藩主。能見松平家15代。

生涯

第8代藩主・松平親明の長男。母は側室といわれている。文政8年(1825年)12月29日、父の死去により跡を継ぐ。文政9年11月15日、将軍徳川家斉に拝謁する。同年12月16日、従五位下河内守に叙任する。後に対馬守、大隅守に改める。天保13年(1842年)7月25日、奏者番に就任する。

文久2年(1862年)閏8月23日、奏者番の役職が廃止となる。同年12月16日、従四位下中務大輔に昇進する。文久3年10月22日、奏者番に再び就任する。元治元年(1864年)11月19日、寺社奉行の兼任を命じられる。慶応2年(1866年)6月15日、寺社奉行を解任される。慶応4年2月22日、奏者番を辞職する。

親良自身は幕閣に加わったことから佐幕派であり、慶応2年(1866年)の第2次長州征伐においても協力的であったが、藩内では尊王攘夷派と佐幕派で分裂して対立が続いた。そのため、慶応4年(1868年)3月24日、ようやく上洛し、明治天皇に拝謁した。そして、同年4月9日、長男の親貴に家督を譲って隠居した。明治24年(1891年)2月3日、82歳で死去した。





固有名詞の分類


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「松平親良」の関連用語

松平親良のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



松平親良のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの松平親良 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS