西尾忠篤とは? わかりやすく解説

西尾忠篤

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/24 09:56 UTC 版)

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西尾忠篤
時代 江戸時代末期(幕末) - 明治時代
生誕 嘉永3年5月7日1850年6月16日
死没 明治43年(1910年11月5日
改名 藤十郎・益之助(幼名)、忠篤
墓所 埼玉県上尾市原市の妙厳寺
官位 従五位下、隠岐守、子爵
幕府 江戸幕府
遠江横須賀藩主→安房花房藩主→花房藩知事
氏族 西尾家(後期東条吉良氏庶流)
父母 父:西尾忠受
兄弟 忠篤、本多忠恕
正室:松平親良の娘
養子:勝順忠方
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西尾 忠篤(にしお ただあつ)は、遠江横須賀藩の第8代(最後の)藩主。のちに安房花房藩主。横須賀藩西尾家11代。子爵

生涯

嘉永3年(1850年)、第7代藩主西尾忠受の長男として生まれる。文久元年(1861年)10月13日、忠受の死去により家督を継ぐ。文久3年1月15日、将軍徳川家茂に拝謁する。同年12月16日、従五位下・隠岐守に叙任する。

幕末の動乱期で藩内では佐幕派、尊王派が抗争を続け、慶応4年(1868年)の戊辰戦争においても両派の抗争が続いたが、八十美穂や青山善一郎らによる佐幕派への説得もあって、横須賀藩は新政府に協力した。慶応4年(1868年)9月5日、徳川家達東海地方に封じられたため、忠篤は安房花房に移封となった。

明治2年(1869年)の版籍奉還知藩事となり、明治4年(1871年)の廃藩置県で免官となった。やがて東京へ移った。1884年(明治17年)7月8日、子爵を叙爵した[1]

明治43年(1910年)11月5日に死去した。享年61。はじめ池田茂政次男の勝順を養子に迎えていたが離縁し、加藤泰秋四男の忠方が家督を継いだ。

脚注

[脚注の使い方]
  1. ^ 『官報』第308号、明治17年7月9日。
日本の爵位
先代:
叙爵
子爵
横須賀)西尾家初代
1884年 - 1910年
次代:
西尾忠方




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