純粋小説論とは? わかりやすく解説

純粋小説論

作者横光利一

収載図書愛の挨拶馬車・純粋小説論
出版社講談社
刊行年月1993.5
シリーズ名講談社文芸文庫


純粋小説論

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/17 02:00 UTC 版)

横光利一」の記事における「純粋小説論」の解説

1935年昭和10年1月この年新設され芥川賞銓衡委員となる。4月、「純文学にして通俗小説、このこと以外に、文藝復興絶對に有り得ない」と説く「純粋小説論」を『改造』に発表、『紋章』での「私」を「自分を見る自分」という「四人称」であると説いた。 また「日本文学伝統とはフランス文学であり、ロシア文学だ。もうこの上日本から日本人としての純粋小説現れなければ、むしろ作家筆を折る如くあるまいと書いた。「純粋小説論」はこの頃翻訳出たアンドレ・ジッドの「贋金つくり」の意識的なメロドラマ性が影響している。 1935年昭和10年8月から12月にかけて『東京日日新聞』・『大阪毎日新聞』に「家族会議」を連載し東京大阪方言対比させた。 1935年7月、『紋章』が第1回文芸懇話会賞を受賞した

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純粋小説論

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/02 01:40 UTC 版)

四人称」の記事における「純粋小説論」の解説

横光利一は「純粋小説論」(初出改造1935年)の中で「四人称発明工夫をしない限り表現方法はない」と主張した。それは「自意識」つまり「自分を見る自分」という人称であると説明される。 .mw-parser-output .templatequote{overflow:hidden;margin:1em 0;padding:0 40px}.mw-parser-output .templatequote .templatequotecite{line-height:1.5em;text-align:left;padding-left:1.6em;margin-top:0}...現代のように、一人人間人としての眼と、個人としての眼と、その個人を見る眼と、三様の眼を持って出現し始め、そうしてなお且つ作者としての眼さえ持った上に、しかもただ一途に頼んだ道徳理智までが再び分解せられた今になって何が美しきものであろうか。(中略)けれども、ここに作家の楽しみが新しく生れて来たのである。それはわれわれには、四人称設定の自由が赦されているということだ。純粋小説はこの四人称設定して新しく人物動かし進める可能の世界実現していくことだ。まだ何人も企てぬ自由の天地リアリティ与えることだ。... —横光利一、「純粋小説論」『愛の挨拶/馬車/純粋小説論』講談社文芸文庫1993年270

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