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戸田忠義

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/12 23:44 UTC 版)

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戸田 忠義
とだ ただよし
生年月日 1864年9月1日元治元年8月1日
没年月日 (1915-04-15) 1915年4月15日(50歳没)
死没地 神奈川県横須賀市汐入
出身校 東京音楽学校本科師範部卒業
前職 宮中賢所勤番
現職 尋常第一横須賀小学校教員
称号 子爵
配偶者 戸田清子(先妻、離縁)
戸田慶子(後妻)
子女 戸田忠粛
親族 鹿園実博(弟、貴族院男爵議員)

貴族院議員
選挙区 貴族院子爵議員
在任期間 1897年7月10日 - 1900年9月29日
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戸田 忠義(とだ ただよし、1864年9月1日元治元年8月1日[1])- 1915年大正4年)4月15日[1][2])は、明治期の政治家尋常小学校教員、華族貴族院子爵議員

経歴

下野宇都宮藩一門重臣・戸田忠至の嫡男戸田忠綱の長男として生まれる[1]。忠義の出生当時、祖父の忠至はすでに大名格であったが、2年後の慶応2年(1866年)に分知を受けて支藩下野高徳藩主となった[1]。父の忠綱もその跡を継いで明治2年(1869年)に高徳藩知事、のち曾我野藩知事となった[1]

父の隠居に伴い、1882年(明治15年)6月29日に家督を相続する[1]1884年(明治17年)7月8日、子爵を叙爵した[3]

1883年(明治16年)宮中賢所勤番に就任する[2]1893年(明治26年)7月、東京音楽学校本科師範部を卒業[4]1897年(明治30年)7月10日、貴族院子爵議員に選出され[5]1900年(明治33年)9月29日に辞職した[2][6]1910年(明治43年)から尋常第一横須賀小学校(現在の横須賀市立諏訪小学校)の教員となった[4]

1915年(大正4年)4月、横須賀市汐入の自宅で病のため死去した[7]

親族

  • 先妻 清子(すがこ、岡部長職長女、離縁)[1]
  • 後妻 慶子(けいこ、鶴田氏)[1]
  • 男子 戸田忠粛(子爵、大蔵官僚)[1]

脚注

  1. ^ a b c d e f g h i 平成新修旧華族家系大成 下巻 1996, p. 190.
  2. ^ a b c 貴族院・参議院議員名鑑 1990, p. 48.
  3. ^ 『官報』第308号、明治17年7月9日。
  4. ^ a b 東京音楽学校一覧 1910, p. 131, 第10部 卒業生及修了生.
  5. ^ 貴族院要覧(丙) 1947, p. 8, 議員及議員異動.
  6. ^ 『官報』第5177号、明治33年10月2日。
  7. ^ 大正過去帳 1973, p. 63.

参考文献

日本の爵位
先代:
叙爵
子爵
高徳戸田家初代
1884年 - 1915年
次代:
戸田忠粛
当主
先代:
戸田忠綱
高徳藩戸田家
3代:1882年 - 1915年
次代:
戸田忠粛



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