深溝松平家の時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/01 05:05 UTC 版)
戸田忠盈と入れ替わりで、松平忠祇が6万6000石で宇都宮藩に入部する。忠祇は宝暦12年(1762年)に25歳で実弟の忠恕に家督を譲った。深溝松平家は島原藩から宇都宮藩への引越しで約6万8500両の費用がかかって財政が困窮していたため、豪商から御用金を借り、家臣の俸給を借り上げて幕府から借用したりもしたが一時しのぎにしかならず、明和元年(1764年)に忠恕は百姓に増税を申し付けたため、9月12日に籾摺騒動と称される農民一揆が起こった。この一揆を忠恕は、藩兵300人をもって武力で鎮圧、一揆の首謀者を逮捕処刑した。 籾摺騒動と同年に大洪水が宇都宮を襲い、240戸が流出して約300人が死亡した。明和3年(1766年)6月18日にも大洪水が襲って230戸が流出、118人が死亡し、田畑は大いに荒れた。このため忠恕は幕府から6000両を借りてしのごうとしたが、安永2年(1773年)3月に城下の西にあった鍛冶屋から出火し、41町が被害を受けて1295戸が焼失、他にも寺院などが被害を受けて合計1813戸が焼失し、45人の死者を出すなど天災続きであった。安永3年(1774年)、再び同じように入れ替わる形で島原藩に移封されるが、この際にも引越し費用が約4万両かかった。
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