深溝・東条松平家時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/23 00:05 UTC 版)
忍城は代々国人領主の成田氏の居城であった。上杉氏と後北条氏の係争地だったため、重要拠点として整備され、低湿地の沼沢を濠とし、その中に浮かんだ島を曲輪として利用した堅城になった。そして、成田氏は永禄12年(1569年)の越相同盟によって正式に後北条氏に属することになった。天正18年(1590年)の小田原征伐の際には石田三成率いる豊臣軍の攻撃を受けたが、落城することはなかった(小田原落城後に開城)。 後北条氏滅亡後、関東に入った徳川家康は忍城に四男の松平忠吉を10万石で入れた。しかし忠吉は11歳という幼年であったため、松平家忠(松平深溝氏(まつだいらふこうずし))が1万石で入る。家忠は三成の水攻めのために荒廃した忍城と城下町を修築し、代官の伊奈忠次の助けも受けて領内に検地を実施した。文禄元年(1592年)に家忠は下総国上代1万石に移され、忠吉は忍に入ったがまだ若年のため、家老の小笠原吉次が実際の政務を代行した。吉次は兵農分離、家臣団編成、新田開発、利根川の治水工事で手腕を見せた。 慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで、忠吉は井伊直政と共に島津義弘軍と戦って負傷しながらも武功を挙げたため、尾張国尾張藩52万石に加増移封された。その後しばらく、忍藩は廃されて天領となり、代官の忠次や大河内久綱らが治めた。
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