木下俊胤
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時代 | 江戸時代中期 |
生誕 | 寛保3年5月27日(1743年7月18日)[1] または延享4年(1747年)[2] |
死没 | 安永5年5月20日(1776年7月5日) |
改名 | 忠照、俊胤 |
別名 | 荘左衛門 |
戒名 | 赫赫院 |
墓所 | 東京都港区高輪の泉岳寺 |
官位 | 従五位下、左衛門佐 |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 徳川家治 |
藩 | 豊後日出藩主 |
氏族 | 戸田氏→木下氏 |
父母 | 父:戸田忠余、母:小川氏 養父:木下俊泰 |
兄弟 | 秋元喬求、戸田忠盈、戸田忠寛、俊胤、智鏡院源空浄本、青山忠高正室 |
妻 | 於久(木下俊泰の養女) |
子 | 俊懋、堀直方正室、横山知雄正室、高井常房室、山崎義徳正室、溝口直清正室、小笠原信成正室 |
木下 俊胤(きのした としたね)は、豊後国日出藩10代藩主。初名は忠照。通称は荘左衛門、主計。官位は従五位下、左衛門佐。
人物
明和4年(1767年)9月10日、先代藩主・俊泰の養嗣子となった。同年10月15日、将軍徳川家治に御目見する。同年12月16日、従五位下・左衛門佐に叙任する。明和5年(1768年)9月21日、俊泰の死去により跡を継いだ。明和9年(1772年)2月、江戸で大火が起こったとき、火消し役としての任務を立派に遂行したと言われている。また、俊胤は智勇兼備の人物で、伊藤金蔵に師事して学問を学び、自ら講師となって藩士への教育に務めたと言われている。著書にも「千体観音図帳」がある。馬術や剣術、槍術にも優れており、免許皆伝の腕前だった。
安永5年(1776年)5月20日、日出で死去し、跡を長男の俊懋が継いだ。法号は赫赫院。墓所は東京都港区高輪の泉岳寺。
系譜
父母
正室
子女
脚注
固有名詞の分類
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