木下俊胤とは? わかりやすく解説

木下俊胤

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/05/15 09:48 UTC 版)

 
木下俊胤
時代 江戸時代中期
生誕 寛保3年5月27日1743年7月18日[1]
または延享4年(1747年[2]
死没 安永5年5月20日1776年7月5日
改名 忠照、俊胤
別名 荘左衛門
戒名 赫赫院
墓所 東京都港区高輪泉岳寺
官位 従五位下左衛門佐
幕府 江戸幕府
主君 徳川家治
豊後日出藩
氏族 戸田氏木下氏
父母 父:戸田忠余、母:小川氏
養父:木下俊泰
兄弟 秋元喬求戸田忠盈戸田忠寛俊胤、智鏡院源空浄本、青山忠高正室
於久木下俊泰の養女)
俊懋堀直方正室、横山知雄正室、高井常房室、山崎義徳正室、溝口直清正室、小笠原信成正室
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木下 俊胤(きのした としたね)は、豊後国日出藩10代藩主。初名は忠照。通称は荘左衛門、主計。官位は従五位下、左衛門佐。

人物

明和4年(1767年)9月10日、先代藩主・俊泰の養嗣子となった。同年10月15日、将軍徳川家治御目見する。同年12月16日、従五位下・左衛門佐に叙任する。明和5年(1768年)9月21日、俊泰の死去により跡を継いだ。明和9年(1772年)2月、江戸で大火が起こったとき、火消し役としての任務を立派に遂行したと言われている。また、俊胤は智勇兼備の人物で、伊藤金蔵に師事して学問を学び、自ら講師となって藩士への教育に務めたと言われている。著書にも「千体観音図帳」がある。馬術や剣術、槍術にも優れており、免許皆伝の腕前だった。

安永5年(1776年)5月20日、日出で死去し、跡を長男の俊懋が継いだ。法号は赫赫院。墓所は東京都港区高輪泉岳寺

系譜

父母

正室

子女

脚注

  1. ^ 『日出町誌 史料編』日出町、1986年、p.645。
  2. ^ 木下俊胤」『デジタル版 日本人名大辞典+Plus』講談社https://kotobank.jp/word/%E6%9C%A8%E4%B8%8B%E4%BF%8A%E8%83%A4コトバンクより2025年5月15日閲覧 




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