木下俊保とは? わかりやすく解説

木下俊保

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/05/15 08:52 UTC 版)

 
木下俊保
時代 江戸時代中期
生誕 宝永3年7月23日1706年8月30日[1]
または同年7月27日(同年9月3日[2]
死没 元文3年8月29日1738年10月12日
改名 千五郎、長保、俊保
別名 右京、主税(通称)
戒名 竜渓院円応浄覚
墓所 大分県速見郡日出町の松屋寺
官位 従五位下和泉守
幕府 江戸幕府
主君 徳川吉宗
豊後日出藩
氏族 木下氏
父母 父:木下俊長、母:長沢氏
養父:木下長胤木下俊在
兄弟 俊量公福俊保木下公定正室、伊東長救正室、稲垣重富正室ら
養子:俊監
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木下 俊保(きのした としやす)は、豊後国日出藩6代藩主。官位は従五位下、和泉守。別名は長保(ながやす)。幼名は千五郎。通称は右京、主税。

経歴

享保2年(1717年)12月21日、一族の木下長胤の養子となり、家督を相続した。同家は初代藩主・延俊の六男の俊重を初代とする分家であり、幕府から300俵を支給される旗本であった。享保9年(1724年)10月9日、書院番に加えられた。享保15年(1730年)9月3日、進物役になった。

享保16年(1731年)11月28日、兄の子で本家を継いでいた俊在が早世したため、その養嗣子(ただし俊保が8歳上)となって跡を継いだ。なお、旗本の木下家は絶家となった。享保17年(1732年)1月28日、将軍徳川吉宗御目見する。享保18年(1733年)12月18日、従五位下・和泉守に叙任する。

享保の大飢饉などで藩内が大被害を受け、幕府より3000を借用したり、悪化した藩財政を再建するために藩札を発行したりしたが、家督から7年後の元文3年(1738年)8月29日、日出で死去した。享年33。跡を甥(俊在の弟)で養嗣子の俊監が継いだ。法号は竜渓院円応浄覚。墓所は速見郡日出町の松屋寺。

系譜

父母

養子

脚注

  1. ^ 木下長保」『デジタル版 日本人名大辞典+Plus』講談社https://kotobank.jp/word/%E6%9C%A8%E4%B8%8B%E9%95%B7%E4%BF%9Dコトバンクより2025年5月15日閲覧 
  2. ^ 『日出町誌 史料編』日出町、1986年、p.643。




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