木下俊哲とは? わかりやすく解説

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木下俊哲

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/01/02 15:09 UTC 版)

木下 俊哲(きのした としあき、明治6年(1873年2月23日 - 昭和11年(1936年4月22日)は、明治から昭和期の華族子爵)。環山とした[1]位階正三位[2]。旧日出藩木下家17代。

経歴・人物

1873年2月23日、旧日出藩主(最後の藩主)木下俊愿の三男として生まれる[3][4]1884年7月8日、前日の華族令公布により、子爵を叙爵する。大正の終わり頃には、俊哲が何件もの連帯保証人となっていたことから、取り付けにあい、日出城二の丸にあった家屋敷や先祖代々の家宝を手放す。これにより、一家は日出から京都に出て、後に東京に移る[5]。その後、華族会館分館の主事を務めた[6][7]。1936年4月22日死去。享年63歳[8]。墓所は青山霊園1-イ2-25で、神式で葬られた。

親族

父は木下俊愿(1837年生)、母の綾子(1850年生)は伏原宣諭(伏原宣明の子)の娘。俊哲は兄に俊忠がいるが、兄を差し置いて俊哲が父親の跡を継いだ理由は不明である。なお俊忠は1928年2月9日に死去している。妻は公家出身の子爵平松時厚の娘・速子。長男の木下俊凞は1936年の俊哲の死により子爵を襲爵した。娘の木下雅子は出雲大社教管長千家男爵家分家の千家尊宣(千家尊福の弟・尊紀の五男)の後妻となった。千家尊福は母の妹の夫、母の兄に伏原宣足がいる[9]

脚注

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注釈

出典

  1. ^ 環山木下俊哲 黄虎洞中國文物ギャラリー
  2. ^ 青山霊園の墓誌より
  3. ^ 木下氏(豊後日出藩) 世界帝王辞典
  4. ^ 木下家(大分県)
  5. ^ 木下家19代当主・木下崇俊「木下家に伝わる秘密、何度も暗唱した父」 AERA dot. 2016年2月9日
  6. ^ 木下俊哲(きのした としあき) デジタル版 日本人名大辞典+Plus
  7. ^ 木下 俊哲(キノシタ トシアキ) 20世紀日本人名事典
  8. ^ 木下俊哲 - 死去ネット
  9. ^ 伏原宣足『人事興信録』第4版 [大正4(1915)年1月]
日本の爵位
先代
叙爵
子爵
日出木下家初代
1884年 - 1936年
次代
木下俊凞



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