水谷勝美とは? わかりやすく解説

水谷勝美

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/10/22 01:23 UTC 版)

 
水谷勝美
時代 江戸時代前期
生誕 寛文3年(1663年
死没 元禄6年10月6日1693年11月3日
戒名 隆昌寺殿天山全長大居士
官位 従五位下出羽守
幕府 江戸幕府
主君 徳川綱吉
備中松山藩
氏族 水谷氏
父母 水谷勝宗青山幸成
兄弟 勝美、勝時、平山常時室ら
松平頼隆
勝晴
テンプレートを表示

水谷 勝美(みずのや かつよし)は、江戸時代前期の大名備中国松山藩3代藩主。官位従五位下出羽守

略歴

2代藩主・水谷勝宗の次男として誕生。

寛文12年(1672年)2月8日、初めて4代将軍徳川家綱御目見する。延宝4年(1676年)12月26日、従五位下出羽守に叙任。生来病弱であったが、元禄2年閏正月14日(1689年)、父勝宗の隠居により家督を継いだ。6月28日始めて領地松山に入る。

民政や治水工事、土木工事に尽力し、特に松山川沿岸の堤防は「水谷普請」と呼ばれた。しかしこのような無理と、元々病弱だったことがたたって、元禄6年10月6日(1693年11月3日)に31歳で死去した。法号は隆昌寺殿天山全長大居士。

実子がなく、従兄弟にあたる旗本水谷勝阜の長男・勝晴末期養子にしたが、家督相続前の同年11月27日に死去したため、水谷氏は無嗣断絶で改易となった[1]

備中松山城の召し上げにあたって、赤穂藩主・浅野長矩が城受け取り役となり、1年半後に安藤重博が新城主として入城してくるまでの間、浅野家家老の大石良雄が松山城の管理を行った。城下で浅野・大石主従は酷評されている[2][3]

大名としての水谷家の名跡はこれをもって絶えたが、勝美の弟水谷勝時が3000石の旗本として名跡存続を許された。さらにその養子の勝英の代に500石が加増されて3500石の上級旗本となり、この知行のままで明治維新を迎えた。

系譜

脚注

  1. ^ 須田茂『徳川大名改易録』(崙書房出版、1998年)211頁
  2. ^ 「備中松山城の受け取りに赴くも、小者に曳かせた馬上にて居眠りして進む」(『翁草』巻百六十七、巻百九十など)
  3. ^ 「大石良雄は足短き醜男で、人々あれが赤穂の家老ぞと云ひて指をさして笑ふ」(『参考義士篇』より「大石内蔵助良雄」)

関連項目





固有名詞の分類


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「水谷勝美」の関連用語

水谷勝美のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



水谷勝美のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの水谷勝美 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS