水谷勝阜
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/11/11 14:16 UTC 版)
ナビゲーションに移動 検索に移動水谷 勝阜(みずのや かつおか)、万治2年(1659年) - 享保18年11月20日(1733年12月25日))は、江戸幕府の旗本。官位は従五位下信濃守。通称は弥之助。父は水谷勝能、母は安藤重矩の娘。子に勝晴(水谷勝美の養子となった)、永井白弘室、諏訪頼安室、勝比がいる。兄弟に水谷勝睦がいる。妻は妻木頼保の娘。
生涯
延宝4年初めて徳川家綱に拝謁、延宝8年遺跡を継ぎ、小普請となった。相続した知行のうち300石を弟水谷勝睦に与え、知行1700石となる。天和元年小姓組、貞享2年進物のお役目、元禄2年(1689年)5月使番、同年12月布衣の着用を許された。元禄8年(1695年)目付となる。元禄10年(1697年)9月美作国津山藩改易の折、現地にて津山城請取の役を勤めた。元禄12年(1699年)9月、京都西町奉行となり、丹波国氷上郡に知行500石を加増され、合わせて2200石となる。同年11月従五位下信濃守に叙任。寛永2年(1705年)1月仰をうけて、畿内、近江、丹波、播磨等の御料を巡視した。同年8月職を辞し寄合となる。のちに丹波国の知行を武蔵国多摩郡に移された。享保5年(1720年)致仕、享保18年(1733年)死去。享年74。
参考文献
- 『寛政重修諸家譜. 第5輯』、國民圖書、1923年、555頁。国立国会図書館デジタルコレクション。
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