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水谷吉蔵

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/10/22 03:04 UTC 版)

水谷 吉蔵(みずたに きちぞう、1880年明治13年)8月30日 - 1945年昭和20年)5月8日[1])は日本の陸軍軍人政治学者法政大学法学部教授、最終階級は陸軍輜重兵少佐。日本に初めて戦車を導入する際、イギリスに派遣された人物。

略歴

1880年(明治13年)8月30日、大阪府に生まれる。

軍歴

1902年(明治35年)、陸軍士官学校14期を卒業。

1903年(明治36年)、少尉に任官。

日露戦争では、遼陽会戦沙河会戦奉天会戦に参加。

1909年(明治42年)、大尉に昇進し、第10師団軍法会議判士に任ぜられ、軍法関連の職務を担当。

1913年大正2年)、陸軍軍法会議法案審査委員に任じられ、軍法制度の整備に寄与した。

1917年(大正6年)、陸軍軍用自動車調査委員会の委員として、欧米(英、米、仏、伊)に派遣される。第一次世界大戦後の戦車技術を調査。イギリスに最新型のマーク V 戦車の購入を打診したが、イギリス側の技術流出懸念により拒否され、代わりに、マーク IV 戦車(雌型)の購入を交渉・実現。日本初の戦車輸入(1918年到着)を成功させ、日本陸軍の戦車開発・研究の基盤を築いた。

1918年(大正7年)、少佐に昇進。最終階級は陸軍輜重兵少佐。

1921年(大正10年)、予備役となり、帝国自動車学校校長を務め、自動車関連の教育・技術指導に携わった。

学歴・教育者時代

1925年(大正14年)、法政大学法学部を卒業。

1931年(昭和6年)、同大学大学院を修了。

1938年(昭和13年)4月、法政大学法学部兼専門部教授に就任し、同年9月に法政中学校校長を兼務。国際政治や国防を講義し、軍歴の経験を活かした教育活動を展開した。

1942年(昭和17年)、『国際政治の指導原理と高度国防国家の必然性』により法学博士(法政大学)を取得[2]

死没

1945年(昭和20年)5月8日、死去。享年64。

業績

水谷の主な業績は、軍事・自動車技術・国際政治学の分野にわたる。日本初の戦車導入や自動車教育を通じて近代兵器の普及に貢献し、政治学者として国際政治の理論を展開した。

書籍

単著

  • 『新兵馬術教育』(校閲)喜多山淡二郎(一二三館 1908)
  • 『自動車操縦術』(帝国自動車学校、1923)
  • 『自動車機構並取扱術』(新栄社出版部、1925)
  • 『自動車学と法規』(兵林館、1928)
  • 『国際政治と戦争』(平凡社、1932)
  • 『国際軍縮と国際聯盟の非合理性』(知進社、1934)
  • 『国際政局と雄大なる皇国の使命』(日本協会出版部、1938)
  • 『政治学要綱』(叢文閣、1939)
  • 『政治学大綱』(有精堂、1943)

編集

  • 『輜重兵須知』(軍友協会、1915)

参考

  • 『自動車操縦術』(帝国自動車学校、1923)
  • 『法政大学校友名鑑』(法政大学、1941)

脚注

  1. ^ 『輜重兵概史 : 座談会』偕行社〈偕行社叢書〉、1978年、115頁。NDLJP:12230229 
  2. ^ 国際政治の指導原理と高度国防国家の必然性

関連項目





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