日本でのマークIV戦車とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > 日本でのマークIV戦車の意味・解説 

日本でのマークIV戦車

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/27 04:03 UTC 版)

マーク IV 戦車」の記事における「日本でのマークIV戦車」の解説

第一次世界大戦1916年大正5年)から戦車活躍すると、日本陸軍でもさっそくこの新型兵器に目をつけ、わずか1年後1917年大正6年)には戦車購入検討している。そこで水谷吉蔵輜重兵大尉イギリス派遣され当初最新マークV戦車購入打診したが、最新技術集大成であるマークV戦車売却することをイギリス許さずやむを得ず次善の策として、一つ前の型であるマークIV戦車購入することになった。そしてイギリスから輸入されマークIV戦車雌型が1輌、操作方法指導するためのイギリス人将校ブルース少佐1名と下士官4名とともに1918年大正7年10月17日貨物船静岡丸で神戸港に、そこで積み替え1918年大正7年10月24日貨物船新潟丸で横浜港入っている。 日本陸軍では、1907年明治40年)に「自動車開発研究機関」を設置1912年明治45年6月に「軍用自動車調査委員会」を発会。1915(大正4)年には、発達目覚しい軍用自動車研究教育試験を行う機関として、東京信濃町にあった輜重兵第一大隊内に「軍用自動車試験班」が設立された。 1918年大正7年10月28日輸入されマークIV戦車雌型が、横浜から汐留(旧新橋駅)までは鉄道運ばれ汐留からは信濃町輜重兵第一大隊へと、イギリス人将兵達の操縦で、夜間路面敷石踏み砕きながら自走し持ち込まれた。その後マークIV戦車雌型青山練兵場移され皇族将校などを迎えてイギリス人将兵達の操縦試験走行が行われた。1918年大正7年12月には陸軍自動車学校1925年大正14年設立)の前身となる「自動車研究班」が設立されマークIV戦車雌型はそこで研究されることになる。イギリス人将兵達はいつの頃か勲章授けられ帰国している。 戦時中靖国神社遊就館屋外展示されていたが、戦後行方不明一説には、遊就館1945年昭和20年5月空襲受けたので、その時被爆しスクラップにされたとも、アメリカ軍持ち去ったとも、される。 本車側面ケースメート砲郭)からは、機関銃装備雌型であるにもかかわらず速射砲砲身のようなものが突出しているが、これはダミー速射砲換装した物ではなくルイス .303(7.7mm)空冷式軽機関銃空冷銃身被筒である(マークIV雄雌ともに、他の型の菱形戦車ヴィッカース.303(7.7mm)水冷式重機関銃装備していたのと異なりルイス軽機関銃装備していた)。 日本陸軍では、マーク IV 戦車のことを、「四號重戦車」と表記した。

※この「日本でのマークIV戦車」の解説は、「マーク IV 戦車」の解説の一部です。
「日本でのマークIV戦車」を含む「マーク IV 戦車」の記事については、「マーク IV 戦車」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「日本でのマークIV戦車」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「日本でのマークIV戦車」の関連用語

日本でのマークIV戦車のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



日本でのマークIV戦車のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaのマーク IV 戦車 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS